時代は、2極化へ、中間は消え、デジタル的なものとアナログ的なものへ。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 時代の流れは、加速度的にデジタル化へとむかう。ICの小型化、高速化、高性能化がすすむ。それにともない、バッテリー革命、蓄電キャパシタ革命が生じる。近い将来には、耳にかけるヘッドホン式の自動翻訳みたいなものが開発され、言語の壁、コミュニケーションでの壁がなくなるとはいわないが、そのハードルは下がるだろう。今のあかちゃんが、大人になっているころには、そんな時代になっているかもしれない。カーボンナノチューブの分散技術が向上すれば、そんな世界も一気に近づく。

 

 

 これは、ある意味、避けられない時代の流れである。この時代の流れの中においても、人は、70年―80年間、この地球で生き続けなければいけない。アナログ時代には、デジタル的な思考に価値があった。しかし、デジタル化した世界においては、逆にアナログに価値がでてくる。最たる例は、将棋である。最強のコンピューター将棋のレベルは、平均的なプロ棋士をすでに抜いている。しかし、将棋としての価値においては、最強のコンピューター将棋をつくったプログラマーよりも、中学生棋士、藤井四段の方に、価値があるとみなされる。なぜなら、藤井四段は、人間で、まだ、中学生だからである。これから、大人の階段をのぼっていく。恋愛もするだろうし、先輩棋士たちの羨望や嫉妬をうけて、心が動揺するはずである。それが、将棋に現れる。将棋の中に、藤井少年の心理状態が反映されるのである。それが、勝ち負けにつながり、そこに面白みがでてくるのである。それこそがアナログ感覚である。コンピューターの将棋には、それがない。人間にはポカがあるが、コンピューターには、プログラムにバクがなければ、ポカはおきない。だから、最近、飛行機事故が起きないのは、自動運転が効くからである。高齢者の車の事故も、これから、安全上のコンピューター制御でのアシストがきくから、大幅に減るはずである。障害物を認知して、アクセルを踏んでも、それが効かないようにすることができるからである。

 

 

 コンピューター社会、デジタル社会になればなるほど、逆にアナログに価値がでてくる。それは、人間らしさ、ある意味、心のゆらぎの反映である。音楽業界でも、デジタルサウンドが当たり前である、そこにあるのは、ノイズのない音である。それはそれでいい、しかし、そこに、人間の心の揺らぎがない、一期一会に変化し揺らぐ人間の魂の変化がそこにはない、録音し、加工された時の状態の再生でしかない。再生機会がなければ、そこに価値はあった。しかし、いまは、求めれば、ほぼ、無償で、曲を聴くことができる。必要があれば、簡単に、スマートフォンにコピーすればいい。だから、音楽でのCDの売り上げが落ちるのは、当然である。世の中の流れもそうだが、音楽関連でも明らかに、二極化が起きている。デジタル的とアナログ的である。デジタル的であれば、あくまで、視覚的要素である。ファッションである。仮想空間に、どのような幻想的なイマジネーションを構築できるかである。そこに求められるのは、センスだけである。デジタル感覚の哀しさは、作り上げる美しさでしかなく、無機的な美でしかない。演出家によって、置き換えられる人形でしかなくなる。見ている方は、その手法が、飽和した段階で、終わりとみている。花の命は短いのと同じである。その刺激に反応しなくなれば、その手法は終わりである。一発芸人と同じ。デジタル文化が盛んになればなるほど、逆に価値がでてくるのが、アナログ的手法、ある意味、ライブ手法である。観客を魅了する何かがないと価値がでない。音楽であれば、ライブできる実力がないと一発で退場となる。楽器、歌、おどり、基礎ができてないと、ライブなどできない。ある意味、下積みの苦労がないと、その舞台にはたてない。多数の中に紛れてごまかすことができても、ピンでは歌えない。

 

 

 デジタル文化がすすめば、対極にあるアナログ手法に価値がでてくる。アナログの強みとは、経験である。実戦経験である。たぶん、これから、少子高齢化で、日本企業も過渡期を迎える。大企業で、管理職としてふんぞり返って生きた人は、定年になれば、再就職は難しい。しかし、現場で技術を磨いてきた人、生産技術を携わってきた人、ある特定の職人的技術を持った人、その人には、死ぬまで、求めれば、職はある。年金以上の収入が得られる。なぜなら、デジタルでは図りえないアナログ的な技能があるからである。もし、デジタルで解消できる問題なら、みんな同じになる。そこに差別化がなくなり、商売としての価値がなくなる。

 

 

 私のまわりには、そういった職人的な人がたくさんいる。みんなおじいちゃんである。定年をすぎても、現役でいられる。なぜかといえば、職人だからである。いろんな状況に対して、自ら持っている技術を現場の状況にあわせて、チューニングできるからである。なぜ、できるのか、経験と感性があるからである。情報は経験に裏付けられて初めて知識となる。そして、そこに感性がはいると、オリジナルな知恵と変貌する。それがアナログ的な職人の強みである。今の時代、情報は、クラウド空間に無尽蔵にある。パソコンで検索すれば、大学教授なみの情報は得られる。しかし、そこに、経験がないから、知識とはならない。当然に、価値がでない。

 

 

 だから、巨大な研究所や大学から出てきた情報も、生産技術に乗らないのは、そこに現場の経験が付与されていないから、絵に描いた餅になる。量産化するチューニング技術、生産技術的な知識とさらにいえば、知恵が欠如しているからである。ITバルブ崩壊まで、日本が強かったのは、そういった現場の人間が、裏方として、新しい商品開発を支えてきたからである。新しい商品の開発資金を捻出できたのも、現場の人間がコストをおさえた効率のいい生産技術を模索した結果なのである。

 

 

 これから、二極化がおきる。若者は、これから起きることをみて、自分の将来をきちんと見極めてほしい。特に、自分の父親がどんな老後をおくるか見ていた方がいい。昔は、人脈があれば、それでも生きていけた。政治家の口ききと同じことである。しかし、情報公開がすすみ、インターネットがすすめば、情報をもっているだけでは価値はでてこない。デジタル化がさらにすすめば、10%の人間が90%の利益をさらうことになる。定年後も、人に求められる人間、命尽きるまで、その経験と知恵が必要とされる人間でありつづけたほうがいいはずである。それは、人間の経験の深さと比例するはずである。どれだけ、手を汚したから、体をつかったか、頭をつかったか、汗をかいたか、知恵を生かしたかなのである。

 

 

 情報だけを話しても、そこにはもはや、価値はない。いかに、ビジネスを創造できるかが、商社マンの力量となる。しかし、商社マンの寿命は、意外と短い。看板がなくなれば、商社マンは、ただのおじいちゃんになってしまうからである。そこに、職人的、アナログ的な知識と経験がなければ、定年後、年金だけでいきていくことになる。いずれ、呆けてきて、すぐにあの世へといく。

 

 

 どんな職業でも、アナログ的、職人的な現場は残っている。デジタルでは置き換えられないものが、ある。時代がどんなにすすんでも、捨てられないのは、人間関係である。人間が関知するところに、商売はある。

 

 

 私は、なぜ、ギターを弾くのか、それは、アナログだからである。50歳をすぎてから、やりはじめたものである。もちろん、仕事の片手間である。しかし、やれば、それなりのレベルには上達するものである。なぜなら、時間を無為に使いたくないからである。仕事にはどうしても、波がある。ぽっかりと開いた時間がかならずでてくる。生きていられる時間が限られている以上、生きられる間に、体に、ギターの技能を記憶させたいからである。すべては、それと同じである。経験には、時間が必要、だから、価値がでてくるのである。職人的な価値がでてくるのは、定年後、60歳から65歳、以降なのである。それまで、うだつが上がらない職人のおじさんの価値が発揮されるのは、それ以降なのである。それとうらはらなのは、管理者、役員、雇われ社長である。看板がなくなって、どうなるか、である。

 

 

 人生、一度きり、再現のないドラマである。人生にTAKE2はない。どの道をえらぼうとも、各人の自由である。私の人生は、浮き沈みの連続、その中で、習得したものがあるなら、今の分散技術である。これから、各社各様のチューニングがどうしても必要になる。自分が作り上げたものであるから、それができるのは、私しかいないのは当然かもしれない。それは、自ら望んだわけではない。しかし、自分で手を汚し、汗をかいて、自分で考え、自分で作り上げたもの、特許があるから、ある程度の権利は守られている。たぶん、死ぬまで、勉強だとおもっている。死ぬ日まで、きっと、何かをやっていると思っている。その基本は、アナログである。若者は、安易な道を歩まない方がいい。手を汚し、汗をかいて、現場をみていたほうがいい。デジタルを利用し、アナログ的に生きる。人生、死んだ時が、最終のエンドである。そこまで、永遠の上り道だと思っていたほうがいい。