前回(第1巻)は高橋先生が聴覚障害と初めて向き合い、大正時代のろう教育やろう者に対する差別、手話がどのようにできていて、ろう者にとってどのように大切なものなのかについて描かれていました。

 

今回はわが指のオーケストラ第2巻について語っていきます。

高橋先生と福田先生は放課後に生徒の保護者を募り、手話教室を始めました。

手話教室を通じて、保護者たちは子供たちが自分たちに懸命に対話を図ろうとしてきたことを知り、涙を流します。

言葉が通じることによって、コミュニケーション方法が増えるだけでなく、家族間の絆も育んでいけるのだと思いました。

また、手話と書き言葉の単語を対応させていくことにより、単語から単文へ、ろう児が手話と筆談ができるようになる「手話法」が当時のろう教育の主流でした。

 

この頃、京都では西川吉之助が娘のはま子が聴覚障がい者と診断され、彼は京都盲唖院を見学し、どのような教育がこれから娘にされていくのかを知ります。

後に「口話法の父」と呼ばれる西川先生(この頃はまだ先生ではないのですが、わかりにくいのでこのように表記します)は娘の未来を按じます。

当時はろう者に対する差別意識はとても高いものだったので、裕福な家庭で育った西川先生は娘を「普通の子として育てたい」と強く思いました。

 

当時の日本でも、ろう者に発話をさせることを試みることはあったのですが、耳が聴こえない状態で発話を教育するということは途方もなく難しく、1か月ずっとカ行をやっていることもありました。日本の発話教育はそんな状態でしたが、アメリカでは読唇と発話で手話を必要としない「口話法」というものもありました。

そのことを知った西川先生は京都盲唖院に「この学校はなぜその方法をしないのか」詰め寄りますが、そんな簡単なものではないと諭されます。

 

ただ、西川先生は諦めませんでした。

その日から彼は学校の図書館でろう教育雑誌を借りて、勉学に励みます。

彼は語学に堪能だったので、アメリカから口話法の通信教育の資料を取り寄せ、ドイツからも文献を取り寄せ、たった一人で口話法の研究をします。

彼は信じていました。

「聴こえないから話せないのではない。訓練によってこの子は話すことができる。耳は聞こえなくとも、話す能力は持っているんだ」

 

西川先生が口話法の研究を始めて1年が経ちました。

舌の位置や口の形を模倣させて発話し(発音)、音を組み合わせる単語発音、読唇、文字を発音させ、「て・を・に・は」の助詞を導入した単文の練習など、気が遠くなるような訓練を西川親子はたった二人だけでやります。

西川先生をここまで駆り立てたのは手話には助詞がないため、ろう者が文章を書く際に助詞を間違えてしまい、欧米では手話はダメだと考えられていたため、西川先生もそのように考えていました。

 

後に欧米でも日本でも口話法の問題点が徐々に出てきて、手話が言語として認められる世の中になっていくのですが、当時は手話があるから口話法が普及しないのだと欧米では手話が弾圧されていました。

第1巻で一作の親族が手話を手真似と侮蔑しますが、西川先生は娘の人生を明るくしたいがために口話法を学び、口話法で娘に普通の人生を送らせたいからこそ手話を弾圧します。

ろう者を愛し、思いやっているからこそ、ろう者を差別から守るために手話を弾圧しする。愛がろう者から言語を奪ってしまったのはとても残念です。

 

私は「わが指のオーケストラ」を読んで、一番共感したのはこの西川先生です。

この人、私に似てるなと感じました。

私は手話の勉強を始めて丁度3か月になりますが、手話の本は分かりにくいものが多いし、多角的に手話を分析した上で、新規学習者の気持ちに立った本が少ないので、自分で書こうと思っています。

 

私が手話の勉強を始めたばかりの頃は口話法が長く日本で主流とされ、手話が弾圧されていたと知って、何でそんなことをしていたのだろうと不思議に思っていました。

その頃は差別意識も強かったので、てっきり差別意識から「ろう者を聴者に近づける」口話法が主流になっていたのだろうと解釈していました。

 

まさか、口話法が愛娘を思う父親の愛から日本で普及することになるとは思っていなかったので、この本を読んでとても複雑な気持ちになりました。私が西川先生でもきっと同じことをしたと思います。

海外から資料を取り寄せ、ひたすら勉強して、たった一人でも絶対に答えが出るまで戦い続ける。手話には助詞がないし、どうしてもろう者は耳からの言語情報が入ってこないため、書き言葉の習得は外国語の習得と同じくらい苦労が伴います。

事例が少ないから判断材料がない。先駆者たちの苦悩ですね。

 

西川親子は全国で講演を行います。耳が聴こえないことと話せないことは違う。訓練で完璧な読唇と発話ができることを目の当たりにし、ろう児の親たちは魅了されます。

差別がひどかった時代だからこそ、手話と筆談だけではろう者が対等に扱ってもらえないと考えた教育者の橋本先生と川本先生と協力し、浪速ろう口話学校を設立します。

 

子供に「お母さん」と呼ばれたい。「お父さん」と呼ばれたい。

はま子の聴者と聞き分けのつかない見事な発音は、そんなろう児の親たちの願いを叶えるものでした。

親たちは口話学校に子供を通わせるようになり、そこでは手話が禁止され、手話を使っていることが見つかると、バケツを持たされ、「私は手真似をしました」と札を下げて立たされます。

 

2巻もとても読み応えのある内容でした。

私は西川親子が好きなので、つい彼らに焦点をあてた感想になってしまいました。

他にも戦争で貧しくなった日本でろう者がどのような扱いを受けていたのか、手話や教育方法だけでなく当時の日本の歴史もわかりやすく描かれています。

 

高橋先生も校長になり、口話法が主流になる中で、彼だけはそれに抗い続け、手話を守ります。

高橋先生にも西川先生にもそれぞれの苦悩があり、もし最初から二人が手を取ってろう教育に当たれたらどうだったろうと考えてしまいます。