今日は横浜で毎年この時期に開催する
フォーラムに行ってきました。
富士山は雲にすっぽり隠れて見えず。
雨に降られなくてよかったです。
今日も午前中のセッションが終わると
すぐに帰るとんぼ帰りでした。
今日もお立ち寄りいただき
ありがとうございます
断捨離トレーナー講習生の
よしながなおみです。
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今日はトレーナー講習生の
同期の読書会でした。
ケン・ウィルバーの「無境界」
なかなか難解な本ですが、
読み進めていくうちに
人間の本質の話だということが
少しずつわかってきたところです。
ちょうど、今日の午前に横浜のフォーラムで
話をしていたこととリンクしていました。
今日のフォーラムのテーマは
「文化」について
変わっていくもの、変わらないもの
について、登壇者4人がそれぞれ
自分の考えを話しました。
他の3人の登壇者も顔見知り。
3年ぶりの再会でしたが、
3年という時間も感じないほど
いつものように
いろんな話題が飛び交います。
感染症に対する偏見って
いつの時代も繰り返されるねという話になり
偏見というのも一種の文化のようなものなのか
私は、文化は変えられるもの、
変わっていくものだと思っていますが
いろんな考えがあります。
偏見って、実態がないのに
とんでもなく強力で
人と人の間に壁(境界)を
作るもののように思うのです。
ここ2年ほどは新型コロナで
不安とか恐怖という感情から
病気ではなく、感染した人への偏見
というモノを生んできたようです。
不安とか恐怖は病気に付きまとうものなのに
病気になった人に対して
どうして偏見という感情が生まれるんだろう。
そんな話をしていました。
正解はありません。
自分はこう思うということを話しながら
接点を見つけていく。
そんなセッションでした。
司会(コーディネイター)が素晴らしいので
誰も攻撃されることなく
それぞれ立場が違うところで
話が進んでいくのです。
読書会の「無境界」では
以前読んだ部分に
人と人との間に作られる境界の話があり、
そこでは、相手に対する負の感情は
自分自身の負の感情の投影だと
そんなことが述べられていました。
無境界的に言えば、
不安や恐怖という感情を自分で消化できず
他の人に投影するときに
偏見
という形になるということでしょうか。
恐れとか不安は外の環境によるものではなく
自分自身で作られるものだとも
書かれていました。
感情を俯瞰することなく
無意識、無自覚に放出すると
病気に対する不安や恐怖が
偏見という意識を生むのかもしれません。
この偏見には何の根拠もない
全く筋違いの話なのですが、
人間というのは時として盲目的で
愚かな対応をすることがあるものです。
今日はフォーラムで
いろんな刺激を受けたせいか
人間の感情とかそんなことに
心を奪われている私がいます。
いつまでもそういう観念にも囚われず
入ってはまた受け流せるように
なりたいものです。
ものを捨てて心が整う
そして人生を変えていく
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