夫がごそごそとしている音で目が覚める。

どうやら今日も蕎麦を食べるらしい。朝から。


朝ヨガ、20分。

起きた頃には夫の朝食は終わっていたので

食事の片付け、自分のぶんの朝食づくり、掃除、などをし、

夫が久々に飲みたいという珈琲を淹れる。

ここのところ夫は珈琲を飲むとおなかをこわすので、紅茶が多かったのだ。


午前中、病院経由で事務所に行く夫といえを出て、

そのまま帰宅するつもりが新しくはじめようとしている仕事の話になり、

それがなかなか白熱したので、そのまま夫と一緒に代々木の病院まで行き、さらに新宿で昼食も一緒に食べ、夫の事務所がある高田馬場まで行き、私は東西線で中野に戻った。

その間、ほとんど仕事の話をする。


一旦、家に戻り、少し仕事。

夕方、赤坂の「オゥ・レギューム」で大学時代の友だちと食事。

野菜がたっぷりのフレンチ。

久しぶりに行ったが、やはり野菜のつかいかたがとても上手だと思う。堪能。



さて昨日、読み終わった山崎ナオコーラさんの「指先からソーダ」。

70篇くらいの数のショートエッセイが載っている本である。


その中のいくつかに、山崎さんが「いじめられていた」ことが出てくる。

たとえばこんな風。


「飴、食べる?」

ポケットから飴を出すと、

「ありがとう」

友人はにっこり笑って受け取ってくれた。小学生の頃にいじめられていた私には、給食当番のときに「おまえの触ったパンは食べられない」と受け取ってもらえなかった経験がある。だから人が食べ物を受け取ってくれただけで、胸が熱くなる。大人は「ありがとう」と言ってくれる。大人になれて良かった、と感じ入る。


私はとてもびっくりとした。

「どうぞ」と誰かから飴玉を出されたときに「ありがとう」と舐める。

あるいは逆に誰かに「どうぞ」と出して「ありがとう」といわれる。

それは私にとってはとても当たり前のことで、それ以上でも以下でもない。

でも世の中にはこんなふうに胸を熱くしているひとがいるのだ。

たとえば山崎さんにとっては「いじめ」がそのトリガーとなる経験だ。

あるひとにとってはそれ以外のこともあるだろう。


「いじめ」について。

いまも世の中にいじめというものはあっていたましい事件がたくさん起きている。

そうして私の子ども時代も当然あった。

私は保育園の頃はいじめられっ子だったのだけれども、小学生、それも中学年以上からは、ほとんどいじめられた記憶がない。もちろん通過儀礼的に、クラスの子に数日間口をきいてもらえない、とか、靴箱に靴がない、というようなことは何度かあったのだけれども、それが長引いたり深刻だったわけではない。

ただもちろん口をきいてもらえない数日間はとてもかなしいしやるせない。お気に入りの靴がどこかへ行ってしまうのはかなしい。しかし私が残念なのは、そういったかなしくてやるせないという思いを知っているのに、だったらほかのひとにはしないようにしようというほど私はまっとうではなくて、流れに乗ってやはり同じように一時期的に友だちに口をきかなかったりすることがあった、という事実だ。そういう黒い染みのような記憶がいくつか、ほんのりと頭の隅にあって、それがときどき蘇ってきて嫌な気持ちになる。私って嫌な人間なんだ。私はそれを知ってるんだ。そういうふうな感じで。


だからこの山崎さんの、おそらくは「本格的ないじめ」を受けていたひとならではの

感じ方に対して、なんだかそれこそ胸が熱くなってしまった。

いまはたくさん友だちがいて、やりたいことができている、と書いている山崎さん。

だからこそこうしてその頃を振り返ることができるのだろう。よかったと思う。

おとなになってよかったと思う。


朝ごはん。

夫は蕎麦、

私はぶどうパン、ハムエッグ、茹でブロッコリー。


昼ごはん。

新宿のお店でカレー。

夫とはんぶんこする。


晩ごはん。

「オゥ・レギューム」にて。