早起き生活から一転、ここ数日はなかなか早く起きられない。
といっても6時とか6時半に起きていたのから→7時半とか8時に起きるようになった、
くらいのものなので
まだまだ早起きの部類、といえばいえなくもない。
午前中、用事をかたづけ
兄とうえの弟に電話。
お盆には帰省しないこと(夫ともども)、その理由などを話す。
兄は黙って聞いていて
弟は意見や感想をいちいちを述べながら聞いていた。
こういうときにきょうだいでも性格の違いが出る。
京都の兄とは、私たち夫婦が京都に帰ったとき(たぶん秋)に会おうということ、
弟には9月に長野に帰省する際に、できれば(弟の都合があえば)会おうということ、
などを最後に伝えて電話を切る。
午後、阿佐ヶ谷へ。
七夕祭りを見に行く。
中野に引っ越して以来、大雨で行かなかった年をのぞいて
毎年、楽しみにしている行事だ。
JRの阿佐ヶ谷駅で降りて、七夕飾りがにぎやかな商店街をずうっと歩き、
南阿佐ヶ谷の地下鉄に乗って帰るか、あるいは違う目的地に行くか、
というのが毎年のコースで、
今年も同じようにする。
いつもの。毎年の。
ふたりで歩く七夕祭り。
商店街のお祭りらしく、
店先ではその店々の屋台が出ていてひやかしながら歩くのが楽しい。
いくつかの惣菜やお菓子・・・焼き鳥だったりりんご飴だったり・・・を求めて歩く。
去年と比べて今年のほうが味がよい、というのが夫ともどもの見解である。
楽しくそぞろ歩き、南阿佐ヶ谷から、
今年は荻窪まで出てスーパー銭湯へ行く。
荻窪駅でその目的地の銭湯の抽選会がおこなわれていて
なんとふたりとも「無料券」を当ててしまった。やった。
そんなわけでふたりして無料になった銭湯でのんびりと過ごし、
晩ごはんを食べて帰る。
O先生のブログに、こんな詩が載っていた。
しずかにこころに残る美しい詩である。
引用。
しずかな夫婦 天野忠
結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。
とくにしずかな夫婦が好きだった。
結婚をひとまたぎして直ぐ
しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
おせっかいで心のあたたかな人がいて
私に結婚しろといった。
キモノの裾をパッパと勇敢に蹴って歩く娘を連れて
ある日突然やってきた。
昼めし代わりにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き
昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。
下宿の鼻垂れ息子が窓から顔を出し
お見合いだ お見合いだ とはやして逃げた。
それから遠い電車道まで
初めての娘と私は ふわふわと歩いた。
―ニシンそばでもたべませんか と私は云った。
―ニシンはきらいです と娘は答えた。
そして私たちは結婚した。
おお そしていちばん感動したのは
いつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころ
ポッと電灯の点いていることだった―
戦争がはじまっていた。
祇園まつりの囃子がかすかに流れてくる晩
子供がうまれた。
次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ
徴用にとられた。便所で泣いた。
子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。
ひもじさで口喧嘩も出来ず
女房はいびきをかいてねた。
戦争は終った。
転々と職業をかえた。
ひもじさはつづいた。貯金はつかい果した。
いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。
貧乏と病気は律儀な奴で
年中私たちにへばりついてきた。
にもかかわらず
貧乏と病気が仲良く手助けして
私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。
子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)
思い思いに デモクラチックに
遠くへ行ってしまった。
どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって
夫婦はやっともとの二人になった。
三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。
―久しぶりに街へ出て と私は云った。
ニシンソバでも喰ってこようか。
―ニシンは嫌いです。 と
私の古い女房は答えた。