お酒を飲んだ翌日は朝早く目覚める。
飲んだといってもお子ちゃまみたいなカクテルをさらにアルコール少なめにしていただいたのを1杯飲めるか飲めないか。私のからだはほとんどアルコールを受け付けない。
しかも昨日は一滴もアルコールを摂取しておらず(アレルギーの検査期間中だったため)、
せっかくの友人の誕生日も水で乾杯をしたにもかかわらず。
なぜかお酒を飲んだときのように早く目が覚めた。
一緒にいた友人が飲んでいたので私も飲んだ気になったのかな。
もったいないのでそのまま起きる。
早く起きることのいいことは、夫と一緒に朝ごはんを食べられること。
朝から「ラーメン食べたい」という夫にじゃがいもラーメン(というのがあるんです)にキャベツをたっぷり入れてつくり、こんなの朝から食べられないよ~といいながら3分の1ほどいただく。
さすがに弱い胃がさらに悪くなりそうなのでその前にヨーグルトもかきこむという変な組み合わせ。
午前中、仕事をしながら録画してあった「アイリス」を鑑賞。
1時間があっという間のドラマである。やるなあ。
洗濯をしてから病院へ。
しかし代々木の病院のビルに着いたものの、エレベーターが病院のある階に止まらない。
な、なぜ???木曜日は午後が休診で、午前中はやっているはず!
と思って診察券を見たら、午前が休診で午後が診察・・・ショック。
その時点で午前11時。午後の診療は15時半。
あまりにも中途半端である。
仕方ないので今日の診察は辞めにして、中野に戻り、夕方行こうと思っていたプールへ。
30分ほど泳ぎ、ウォーキングもする。
25メートルのクロールならまったく苦しくなく泳げるようになった。
一度少し呼吸を整えてからまた25メートル、という泳ぎ方もそれほど難しくなくできる。
これを連続してすいすい泳げるようになることが今年の目標だ。頑張るぞ。
プールの隣にある水着で入るサウナで採暖をし、さらに敷設しているジャグジーで体をほぐす。
ここまでで1時間。なかなかいい運動である。もちろん私にしては、ということだけど。
帰宅後、また仕事のつづき。
オモニから1月と5月の帰京時の写真がまとめて焼き増しされて届く。
1月の帰省はもはや懐かしい。
笑顔もどこかぎこちない気もするのは初めての「帰省」で緊張していたから?
5月の写真の中にものすごーいドアップ、しかもピースサインでひとりで写っている写真が・・・。
従弟の結婚式のときに「ナオさんナオさん」とちびっこ軍団にカメラを向けられたのだが、
まさか本当に撮影されていたとは・・・。
最近、ときどき外出先や移動中などで
少しずつ高村光太郎の「智恵子抄」を再読していたのだが、
それにしたってこんなにひとりの女性を愛せるものなのだなあとそのことに感心する。
こんなに美しい言葉で。こんなに烈しく。
智恵子の死を詠んだ詩では「レモン哀歌」が有名で(確か教科書にも載っている)、
高校生のときにはじめて「智恵子抄」を読んだときは
その清冽な色と言葉と悲しみにはっとしたものだ。
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
(レモン哀歌 より、最後部分のみ)
そうしてもちろんいまもその美しさにはびっくりとするのだが、
高校生の頃には目に入ってこなかったこの「梅酒」に
今回はしみじみと心打たれる。
「梅酒」
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
(昭和15年3月)
高村が戦後、東京に出てきたときにいたアトリエは偶然にも
つい最近まで住んでいた中野桃園町。
しかも桃園の家から歩いて2~3分で、毎日のように歩いていた場所にある。
同じ空を見ていたのかと思うと不思議な気持ち。
智恵子が入院していた病院があるゼームス坂は、その前に夫が住んでいたところの近く。
ふたりでよく歩いた道でもある。
「東京に空が無い」といった智恵子がいまの東京の空を見たら仰天してしまうだろう。
「驚いて空を見」た高村でさえ、きっと。
高村が鬼籍に入ってから、もう50年以上経つのだな。
朝ごはん。
ヨーグルト、じゃがいもラーメン。
昼ごはん。
なし。
晩ごはん。
夫は仕事先で食べてきたのでひとりごはん。
鮭の塩焼き、ひきわり納豆、キムチ各種。
高村光太郎の「智恵子抄」を再読、読了する。