そうなのである。
気がつけばもう4月。
そういえば新入生らしき学生、新人らしい社会人、
どちらも街で目にする。ここ数日。
早いものだ。
今年ももう3ヶ月終わった。
大学生になってからも社会人になってからも
もうずいぶんと経つ。
早いものだ。
晴れるかと思っていたのにそとは花曇り。
夫は夕方にフットサルがあるので、花見はゆっくりできる明日しようということに。
昼過ぎ、夫と昼食ついでに本屋さんへ行き、
その後、ブロードウェイの裏にある「瑠璃」という喫茶店へ。
ここは初めて入る店。
カウンターの後ろに大きなレリーフ。
夜はバーになるようで、お酒がたくさん置いてある。
しばらく珈琲を飲みつつ本を読み、帰宅。
阿佐ヶ谷へフットサルへ行く夫とともに出かけ、私はひとえき手前の高円寺で降りる。
今日は「ネルケン」気分だったので、迷わず「ネルケン」へ。
チャイコフスキーの「白鳥の湖」がかかっていてびっくりとする。
ネルケンへ行くようになってから3年近く経つが、チャイコがかかっていたことはただの一度もない(たぶん)。
そのためマダムはチャイコフスキーが嫌いなのかと思っていた。
きっと私がいるときにかけていなかっただけなのだろう。
それにしても「白鳥の湖」とは懐かしい。
私にとってはチャイコの楽曲という前に、バレエで踊った曲、ということで体とこころに残っている曲だ。
しかしそれゆえに、読書にはまったく向かない。
しばらく耳を傾け、きりのいいところで中野へ戻る。
自宅ではベートーヴェンの「英雄」を聴く。チャイコに続いて重たいラインナップである。
重くなりすぎたので同じくベートーヴェンではあるが「ロマンス」を聴いてお耳直し。
ここ数日の気になった言葉。
忘れないように書き留めておく。
若い時のひらめきには概して間違いがない。
ひらめくことがあったら、それを深く深く、徹底的に掘り下げて考えてみろ。
そして一つの結論に達したら、影響力のおよぶ範囲でいいから強く執拗に主張する勇気を持つこと。
(日経新聞より、海軍大阪警備府指令長官だった岡新中将の言葉。「私にはこの勇気がなかった」そうだ)
私はもう若いとはいえない年齢だが
これからを生きるひとつの教訓として胸にとどめたい。
「できることに目を向け、それをどう伸ばすか」
(こちらも日経新聞より、愛知県西尾市の中学校英語教員、小島裕治さんの言葉。小島さんは4歳の時に事故で両腕を失う。「例えば僕は重い荷物を持つことができない」。高校までは、この「できないこと」への負い目が先に経っていたそうだが、その後、多くの師との出会いで考え方が変わったという)
このことは夫もよくいっていること。
「何ができないか」あるいは「過去に何をしてしまったか」ではなく、「だとしたら、ではいま何をやれるか」を考えよ。ということ。
「わたしは、タケヤリ訓練やバケツリレーを嘲笑している先に・・・政府の馬鹿げたスローガンをかげで笑っていたその先に・・・まさかこんな未来が待っているなんて思ってもみなかった。・・・騙されていた?そうかもしれません。けれど・・・たとえそうだとしても・・・それでわたしの罪がなくなるわけではない。むしろ騙された者の罪は、ただたんに騙されたという事実(こと)の中にあるのではなく、あんなにも造作なく騙されるほどに判断力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に一切をゆだねるようになってしまったこと・・・無気力、無自覚、無反省、無責任・・・それこそがわたしの罪だったのです」
(柳広司さんの「トーキョー・プリズン」より)
わたしも罪を犯していないか?これからも犯さないでいられるか?
罪を犯さないために、罪を犯す危険性について意識を持つこと。
朝ごはん。
トースト。
昼ごはん。
夫とザッツバーガー。私はポテトだけ。
なんだか毎週ザッツバーガーに行っているような?
晩ごはん。
夫はフットサル仲間と食べてくることになったので、
ネルケンで食べたチーズトーストを晩ごはんと思うことにする。
柳広司さんの「プリズン・トーキョー」を読了する。