さて昨日から京都に来ています。


昼前に京都に着き、恋人は法事へ。嫁入り前の私は非公開なのでひとりぶらり。

夕方から雨が降ってきたもののそれまではうすぐもりの京都で

行きたかった山寺には道に迷い最後までたどりつけなかったものの

とても感動的な出会いもあり(ひと、ではなく天井絵ですが)

なかなかどうしてやっぱり京都はいいなあ、と思うのであった。


夜は雨がひどくなったこともあり

また恋人から遅くまで出歩いたらあかんでといわれていたこともあり

早々にホテルに引き上げ、

本を読んだり仕事をしたりする。

(おかげで連休中にやっておきたかった仕事すべて片付く)


ところで今回の京都来訪の目的は

もちろん結婚式の打ち合わせなのだが

もうひとつひとり目的にしていたのは喫茶店にいくこと。

前から行ってみたい喫茶店が5こほどあり

できればそれらすべてにいこう、と綿密な計画を立てているのである。


で。実際に、昨日1日だけでそのうちの3店を来訪。


まず最初に行ったFは思いっきり期待はずれ。

なにしろ接客がいけなかった。そうしてお店ぜんたいがわさわさしすぎ。

せっかくのクラシック音楽があまり聞こえなくてとても残念に思う。


次のYはそんなに混んでいない店なのに

どうしてか30分近くも放置され、ここはヨーロッパですか?という状態。

名曲喫茶なので

音楽はかなりよく聴けたので満足したものの

東京の同類の店よりは音響もいまいちな気がする。


どうしても行きたいと思っていたRが混んでいたので平日にまわすとし、

行ければ行こうかなくらいに思っていた同じく三条のカウンターだけの店、Nにいったら

そこはまあまあだった。

ものの、店主の手がすべり、カップに思いっきりドリップポットを落とし、

そのせいで珈琲をこぼしてしまった。

さてどうするのかな?と横目で見ていたら、

そのままカップを拭いて提供されてしまった。

私はこういうサービスが好きではない。


時間がかかったとしてももういちど淹れなおす、あるいはたとえば

申し訳ありません、淹れなおしますね、とひとこえかけてほしい。

そうすれば「いいですよ、そのままで」といえるし、実際に淹れなおしてほしいと思っているわけではないのだから

にこにことできようものの。


とても感じのいい店なだけに残念に思う。


今朝はIの本店で朝ごはんを食べようと思い

9時くらいに到着するも、なんとすでに20人くらい並んでいてげっそりとする。

Iは東京駅の大丸にも入っていて、そこで朝メニューを食べたこともあるし有名な珈琲も飲んだことがあるのだが

まあせっかく京都なんだし本店に行こうかな、と思い行ってみたのである。

その程度の同期ではあったのと、並んでまで朝食を食べるのはいかがなものかと思ったので

(もともと並ぶのが好きではないうえ、朝食はそこまで気合を入れるものではなくもっと気軽なものでありたい)

結局、すぐそばにあるIの三条店で珈琲だけを飲み朝食とする。


と。

ここまでで思ったことその1は、

観光ハイシーズンに観光地に来るべきではない、ということ。

実はこれまで相当何度も京都にはきているのだが

ハイシーズンの連休、というのははじめてである。

思えばたいていシーズンオフの週末、とかシーズン中でも平日、にうまくきていたらしいのだ。

あまり意識をしていなかったのだが。


ハイシーズンの京都は本当におそろしいくらいのひとごみである。

なにしろなんとなく入り込んだ道が日曜日の原宿状態、だったりするし

ものの10分でいけるはずの距離がタクシーで30分もかかったりする。


そして。その2。

喫茶店というものはやはり生活に根付いているのだということ。

もちろん旅先で素敵な喫茶店に出会うこともあるだろう。

実際にそういう経験もある。

しかし喫茶店が胸襟をひらくのはやはり日常のなかにくみこまれてこそであろう。

そうしてほんとうに素敵な喫茶店というのは

自分にとって素敵、という意味である。

たとえば空間。たとえば椅子。たとえばトースト。たとえば珈琲。

たとえば喫茶店に行くまでの道のり。

それらが、あるいはそれらすべてが

自分にとってさえベストならば、それでいいのだ。

たとえほんのちっぽけな喫茶店であったとしても。


そんなことを思う。京都の街で。


浅田次郎の「日輪の遺産」を読了する。