あまりに足と腰が痛くてなかなか寝たり起きたりできない。
というと変な言い方だけど、
寝ようと思ってもだるくて寝付けず、
いざ眠ったと思うとまただるくて朝、ベッドから動けない。
困ったものです。
運動不足?と思わぬでもなく、
散歩がてら、また花見がてら、ひとえき前で降りて落合から事務所まで歩く。
途中、妙正寺川(だっけ?)があって、川の両袖にはそれはそれは見事な桜並木があるのだ。
去年見逃してしまったので、今年こそと見に行く。
妙正寺川の桜はそろそろ散り始め
花びらが川面に浮かぶ。
橋の欄干にもたれて桜をずうっと眺めると
桜のなかに吸い込まれていくような気持ちになる。
やっと青木玉さんの「着物あとさき」を読了する。
途中でよこはいりさせた本が多くて
すごく時間がかかってしまった。
きもの。
着ていないなあ。
着たいけど着られない。
それはきっと、着どき、ではないのだと思う。
だからもう少しの辛抱だ。
友だちからは「もう飽きちゃったの?」くらいに笑われたこともあるのだけれども
飽きちゃう、わけないよね。
自分のなかで封印しているだけ。
きものにのめりこんでしまう自分を感じているから。
それは着る、ということにもそうだし、きものの背景的なものについてもまた。
封印をとく時期も、ほんとうは決めている。
それまでは我慢だ。
我慢だけれども、こうしてきものの本を読むとどきどきとする。
洗い張りとか雪晒しとか工房のこととか
とてもいい話がたくさんあったのだが
もっともこころに残ったのは、壇ふみさんの解説に出てくるこの一文。
「着物には三つの思い出がついてまわります。
一つ目は、その着物を手に入れたときの思い出。二つ目は、着たときの思い出。そして三つ目は、譲ったときの思い出」
なるほどなあ。
私にはまだ「三つ目」の思い出は・・・譲られたほうも譲るほうもないのだけれども、
でもすごくわかる気がする。
そんなことを思う。
それにしたってきものを着なくなったいまの世の中に
こんなにもたくさん忘れられて、
そうしてなくなってしまうかもしれない
風習やしごとがあるんだと思うと
なんともいえない。