もう3年もこの状態が続いている。

男は毎年、今年こそはなんとかするからといい続け
私はその言葉にすがり続け
日々のちいさな楽しみやいさかいをその間にいくつも重ね重ね
3年が過ぎた。

3年。
長いとは言い切れないが短くはない。決して。

気がつけば男に「ちょっとだけ」貸している金も200万近くになった。

こちらは決して少なくない金額だ。
しかもまだ若かった時分。
まとまった金額が手元に入る梅雨時と師走になると
ただでさえさがっている柳眉をさらにさげて男は金の無心をする。
おまえしか頼めないからという男に呆れながら結局金と時間を渡してきた自分がいちばんの阿呆だ。

いやいまは分かる。
金よりも時間だ。
まだ若くきらきらしている頃は気づきようもない時間。その尊さ。

たまに我にかえると
何やってるんだ私と思うのだが
時間が流れれば流れるほど手放すのが何故か惜しく怖くなるのだ、どんな値下がり株でももしかして上がるかも?一日待てば、来週になれば、と思うのにそれは似ている。
結局損切りができないのだ。
あるいはかけてきた時間の重さに腰が上がらない。
損して得取れだ。昔のひとはいいこというなあ。
損というか痛みは一瞬だ、その先の人生の長さのほうが重要。

分かってはいるんだ、分かってはいるんだ。けれどやめられない。
苦しい。やめたい。
こんな自分を卒業したい。
でも私は私をやめられないのだ、結局。


そんなずいぶんと昔の閉塞した日々を久しぶりに思い出した。
常に後悔の殆どない能天気な私だが
あの頃の日々だけは後悔しても仕切れない。

「生きているだけで、愛。」は、劇作家である本谷有希子さんの小説だ。
躁鬱を繰り返し心のアンペアをあげられない主人公の女性、25歳は物語終盤で恋人の津奈木に叫ぶ。

いいなあ津奈木。
あたしと別れられて、いいなあ。

そう。
私は私をやめられない。
どんなに苦しくてもつらくても
あるいはいまのよろこびに束の間しあわせを感じていても。

でも。30も半ばになればわかる。
私は私をやめられないけれど
選ぶことはできるのだ。
人生を。ともに歩くひとを。
少なくともこの平和な時代の日本においては。

間違えないことはときに難しい。
でも必ず。選びなおすこともできるのだ。毎日を。新しい日々を。

ずいぶん昔の私に、
そして友だちたちに。