さらに。
名曲喫茶について私が不可解に思うのは、
「モーツァルトの偶然」である。
というのも。
実は私が「初めて行った名曲喫茶」の数々の店々は、
なぜか必ず「モーツァルト」をかけるのである。
それもかなりの確立で、アイネ・クライネ・ナハトムジーク。
たいてい入店すると、既になにがしかのレコードがかかっている。
(そう、名曲喫茶では、レコード。なのです)
珈琲などを頼み、本を開きつつ、
さて次は誰の曲なのかな???と思う。
プツッ。ざああああ(レコード針の音です、念のため)
と。
本当に本当に不思議なのだが、
それまではベルディの歌曲がかかっていたり、ショスタコービチだったり、
あるは誰これ?知らないんですけど!さすが名曲喫茶だわ!と思うような曲がかかっていたとしても。
どうしてかモーツァルトの、しかもアイネ・クライネ・ナハトムジークが流れ出してくるのだ。
最初はおかしいなと思った程度だったのだが。
しかしあまりにもこの偶然がつづくと
もはや偶然とも思えない。
なにか名曲喫茶の裏コード的に
「初めて来店する(と思しき)女性の一人客がきたら、モーツァルトを流す」というものでもあるのだろうか。
あるいはまた私の顔がよほど「モーツァルト大好き」に見えるのか。
断っておくが。
私はモーツァルトはむしろ好きではない。
いやちょっと違うかな。
数多ある音楽のなかではもちろん好きのうちなのだが、
私が好きな音楽は、もっとドドーンとしていてベタベタしていて壮麗な音楽なのである。
そう、チャイコフスキーやベートーヴェンやラフマニノフみたいに。
クラシックマニアのなかでも相当な部類に入る友人と
好きな作曲家ならびに曲の話をしていたとき、
「ああナオさんは大袈裟な感じの曲が好きなんですね」といわれたことがある。
そうなんです。大袈裟な感じの曲。大好きです。
なのにモーツァルト。
今日も、なので、「いや違うんですけど・・・」と思いながらも
せっかくなのでまるまるレコード一枚を鑑賞し、
おもむろにリクエストボード(「ルネッサンス」は黒板にチョークで聴きたい曲を書くのです!)に、
チャイコフスキーのこれまたべたべたな悲愴、しかもバーンスタインとNYフィルのベタベタな演奏を書いておき、
溜飲を下げたのでした。
そう、私は場の空気を読まない「クラシックファン」だから。
チャイコフスキーの「悲愴」はもっとも好きな曲のうちのひとつで、
あのくらーい第一楽章の最初から、この世のものとも思えない美しい旋律、
さらに第三楽章で「聴いた!?これが私の(え?)チャイコなのよっ」と叫びたいような気持ちに駆られ、
第四楽章でちんまりとフィナーレになるという、
それまでの華麗なモーツァルトが一網打尽になるくらいの空気感である。
チャイコを聴きやっと安息したところで、
二店目の「ネルケン」へ。
「ルネサンス」へ行く前に場所だけ下見をしたせいもあり難なく到着。
おもむろにドアを開けると、品の良い感じの高齢の女性が迎えてくれる。
朝から珈琲を飲みすぎてるので、こちらではロイヤルミルクティをお願いする。
流れる音楽にうっとりと身を浸していると、
ほどなく紅茶を淹れる芳しい香り。
ああなんていい香りなんだろう。お休みっていいなあ。
運ばれてきたロイヤルミルクティは、ひとくちで丁寧に淹れてくださったことがわかる味。
すばらしい。
しかしこの店でも、なぜか途中からずっとモーツァルトタイムになり、
そろそろ帰宅しないといけない時間にもなってきたため1時間弱で店を後にする。
それにしたって名曲喫茶。
なぜ「名曲」なの?というのはおいておいて。
またなぜモーツァルトなの?という謎もおいておいて。
街から次々に姿を消していき、とても残念に思う。
中野にはもう一軒もない。残念で仕方がない。
最近すこしご無沙汰の阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」にもまた行かなくちゃ。
そんなふうに思いながら、暗く冷たい冬の街を。
それでももうすぐ春が来る街を。今日も家まで歩くのだ。