ここのところ。
過去と現在と未来との関連性について
意識をするいくつかのことがあった。
たとえば最近読んだ本に出てきた一説。
選挙に行ったことがない、という登場人物に対して語られることば。
なぜ選挙に行かない?その権利を得るために過去のひとたちがいったいどれくらいの犠牲を払ったと思っている?
たとえば友だちとお茶をしたときの議論。
自分自身の思考の癖や選択の基準はいま現在の自分自身だけでなく
母や祖母やその前の世代からの連綿とした歴史に基づくものであること。
そういえばオバマ大統領も
昨夜の就任演説で「祖先が支払った犠牲を忘れてはいけない」というようなことを言っていた。
いまの自分の意志は自分の意志に基づくものだと
私は長いこと思っていたのだけれども
もちろん自分の意志であることもまた事実なのだけれども
私の精神性の背景に、実はものごころついたときからずうっと聞き続けてきた
母のある言葉があるということに
最近、突然私は思い至る。
私が長いこともってきたその考え方はいまでは「それはおかしいよ」とふつうに思えることなのだが
つい数年前まで、私は真剣にその考え方にとらえられていたのだ。
そうか、あれは母のあの言葉に紐づいていたのだ。
それがわかってからはとてもすっきりとしたのだが
ではなぜ、母はあのような言葉を発し続けていたのだ?ということに次に思い至り
それは母とその母の親子関係に起因しているだろうということが大筋わかっている。
大切なのは、それがよくないと思ったら、
自分の世代で止めることなんだよね、と友だちはいっていて
私もそのとおりだと思う。
ただそれがよくないかを理解しないと止められない。とても恐ろしいことだと思う。
今日は後輩のところへ顔を出す。
いろいろといろいろといろいろなことを話す。
私はどうしてか後輩が明るく元気という印象をそこまで持っていなくて
いや実際には明るく元気なのだがそれが核なのではなく
まわりを楽しませたいとかいつも笑っていたいとか
楽しい自分でありたいという思いのほうが核のような気がずっとしていて
それがときどき心配だった。
こんな私でもできるだけプラスの感情を持ちつづけたいと思っている。
特にひととあうときには、最後に残る印象が笑顔であるといいなということを
常に思っている。
それでも人間だもの。
頭に来たり泣いたり騒いだりはたくさんある。
そしてそれはたぶんとても大事なことなのだろう。
そんなことを思う。
今夜はそんなわけで早めに帰宅。
夜遅いだろう恋人のために野菜スープをつくり
私はひとりごはんにする。
鮭の塩焼き、クレソン、納豆。ひとりのときは簡単に済ます。
村上龍さんの「5分後の世界」を読み始める。