外に出たら冷たい雨が降っていて
ああ恋人が風邪を引かないといいなと思う。
この冷たい雨。


たまたまつけたテレビ番組で
金嬉老さんの特集をしていたので観ることにする。
ばんごはんをつくり終え
恋人の帰宅を待つあいだ。
金嬉老事件は高校生のときだろうか、
歴史の授業で学んだ。
民族差別事件として知り得たことは幸運だと思う。

もちろん。
事件は事件として裁かれなくてはならないだろう。
しかし。であるならば。
差別も差別としてとらまえなくてはならないだろう。
いま恋人と私は。
ひとりとひとりの人間として向き合う。

在日韓国人三世の恋人。
日本人の私。

韓国人と日本人よりも
ある意味、複雑な関係だ。
同じような環境のひとならわかるだろうと思う。

ただ私の家族はいわれなき差別…民族差別や部落差別などの存在を認めた上で差別を赦さないひとたちだ。
蓋をするのではなく向き合うことで
差別をなくすという教育を受けてきた。

たぶんそれは幸運だろう。

だから
私と恋人の関係には
だからなんの翳りもなく。
もちろん。
ここにくるまでに違和がなかったわけではないのだけれども。
その違和は国籍がちがう人間同士ならば多かれ少なかれ起こりうる程度のことだ。

ときどき。
恋人の口に登る、在日韓国人としての心情。

親の世代。その前の世代。それはそれは酷い差別を受けてきたと恋人はいう。
自分たちの世代だって。

差別を受けるのは当たり前やったから
そんなことはいちいち気にしていられへん。
ゼロからやない、マイナスからのスタートや。
だからたいていのことはなんとことあらへん。

そういって笑える恋人を
私は尊敬できると思う。

差別を受けたことを
そういう壮絶な時代があったことを
いつまでも気にして憎しみあっていても
そこからはなにも生まれない、
自分たちの世代で終わりにしないといけない、

そう恋人は何度もいう。
私もそうだと思う。
差別をしてきた側が何を都合のよいことを。
そんなふうに思わないでほしい。

大上段に構えるでもなく
知らないふりをするでもなく

ただされて嫌なことはせず
付和雷同に期することなく
結果についての原因を考え
たいせつなひとをたいせつに
過去と毎日と自分の健康に感謝をし
そういうふうにしていたいと思う。

恋人の帰りを
部屋をあたたかくして
待っている。寒い雨の夜。