気が付けば9月。

どんどんと日が短くなってきていて

ああもう夏は終わったんだと思う。


夏が終わるのは淋しい。

それは暑いのが好きだからとかそういうことではなく

(さすがに今年の暑さはこたえたし)

たぶん日が短くなっていくことの淋しさと

夏の鬱蒼とした喧騒の終わる切なさと

そんなところだろう。


昼にMくんと食事。

Mくんは同期の男の子で、大阪在住なので

ときどきしか会えない。

ときどきしか会えないが、そのあたたかさ、やさしさが

すばらしいと思う。そんな男の子だ。


Mくんは私の恋人のことを少し知っていて、

そうして恋人のことを快く思っていない。

それはMくんの奥さんとか、あるいはMくん本人の思うところあって、

のことだ。


久しぶりに会ったMくんが、

少し遠慮を含んだ声音で、


で、Tとは・・・?ときいたので

まだ付き合ってるよ。どころか一緒に住んでるよいま。

と先まわりをしてこたえたら

ええっ。ほんまに?と心底驚いたかのように、

でもナオちゃんが幸せならそれでええねんけどなあ。でもなあ。という反応。


Mくんは私を心配してくれているのだ。

それはとてもよくわかる。

だってそのころのことを知る友人たちは

誰しも私のことを心配していたから。

私も自分のことが心配だったから。

そうして人間の本質はそんなに変わるものではないということも

もちろんわかっている。


でも。と私は思う。

私がそのころ悩んでいた、

とらまえていた、

「恋人の本質」は、本質だったのだろうか。


私は5年以上前の恋人を知らない。

5年前ころの恋人と、いまの恋人。

両方知っているひとは、別人みたいだねと口をそろえていう。


別人みたい。


確かにそれは、ある部分当たっている。

そうしてなにが本質かなんて

結局のところわからない。


ただ私はいまの恋人のことをとても好もしく思う。


あのころの恋人と、別人みたいな恋人のこと。

あのころ持っていたいいところは、さらに良くなったと思う。

そうしてあのころ持っていなくて、持ってほしいと思っていた部分を

いまの恋人は持っている。


思いやるということ。

感謝すること。

まわりのひとの気持ちを想像すること。

この生きている毎日を大切に思うこと。

たいせつなひとをたいせるにするということ。


そういう私がたいせつにしていることどもを

恋人にも持って欲しかった。

そういう人になってほしいと願い続けた。
そんな5年間。


5年前の恋人を私は確かに好きだった。

でもいまの恋人のほうが、私はもっとずっと好きだ。

恋人としても。ひとりの人間としても。

そう思えることは、とても幸福なことだろう。


それこそが、いまの私にとってのこたえだ。

これからの私にとっての。


そんなことを思った。