最近、須賀敦子さんの本をよく読んでいる。
どの本もとても好きだなと思うところが多くて
そうして須賀さんの本を読んでいて思うのは
ああこういう時代が確かにあったのだということ。
ところで須賀さんの「ヴェネツィアの宿」は、
須賀さんの幼少時代の話やお父上、お母様とのエピソード、
早世された旦那さまのことなどが綴られたエッセイだ。
常はさっさかさっさかとページを読み進めてしまう私だけれども
須賀さんの本はもったいなくてゆっくりとゆっくりと読んだ。
この「ヴェネツィアの宿」には、
須賀さんのお母さまがお年を召されてからキリスト教の洗礼を受けた話が出てきて、
(須賀さん自身は若いころに洗礼を受けている)
そのお母さまがおっしゃった、洗礼を受けた理由、が
私はとても好きだ。
「終点にだれもいないより、神さまがいたほうがいいような気もするわ」
確かにそのとおりだ。
この生の終わりに。
だれもいないよりは、だれかがいたほうがいい。
もう愛するひとがこの世にいないのならば
願わくば神のようなおおきくたいらかなものがいたらいい。
ただ絶対に、とはいえない。
いたほうが「いいような」気がする。そんな感じ。
ちなみに須賀さんはこのお母さまの台詞を評し、
「やわらかな母の信仰がうらやましかった」と綴っている。
私は信仰は持たないし
この先も持たないと思うのだが
それでもおおきな意味で神というか・・・の存在はあるのだろうなと思うし
それは唯一絶対の神というよりはむしろやおよろずのようなものを漠然と思っているわけなのだが
きちんと信仰を持つことには自由さも不自由さもあるのだと
この須賀さんのことばからも感じたりする。
もしくはやわらかくあることの尊さのようなもののことを。