おばあが湯気の上がる鍋を食卓に運ぶ。
幸がひとつひとつの皿を覗き込んで歓声を上げる。
おばあと幸の賑やかな論争が始まる。
散歩の時に誰と会ったとか、仕入れた野菜が傷んでいたとか、明日の天気とか。今日あった出来事、それも取るに足らないことをお互いに言い散らかす。
それを家族と呼ぶのなら、自分たちはまさしく家族なのだ、と明青は思う。
これは原田マハさんの小説「カフーを待ちわびて」の中に出てくる一節である。
沖縄のちいさな島にうまれ住む明青(あきお)は、右手に障害を持ち、幼いときに父を亡くし、母は出奔する。
明青をそだてた祖母も亡くなったので、いまは裏に住むユタのおばあが夕餉をつくり、明青はおばあの身のまわりの世話をしながら、ちいさな商店を切り盛りをし、毎日昼下がりの2時間の中休み(ナカユクイ)を貪りながらささやかな生活をつづけている。
そんな明青の日常に、ある日、「幸」という女性が舞い込んでくる。
明青と幸、そしておばあ。島に住む友人たち、近所のひと、島から出て行った若者たち。夢破れて帰ってきた若者たち。その家族。
それぞれの物語が折り重なりつらなるひとつの話。
この話を読んで、ふたつのことを思った。
ひとつは、家族のこと。
正確にいうならば、家族の形態について。
ろくに勉強もしていない大学時代だったけれども
唯一おもしろくて受講していた社会学の授業があって、
私は卒論のテーマに「血縁のない家族は家族として成立するか」というテーマを選び、その社会学の教授に卒論担当として就いていただいた。
枝葉は省くけれども、その卒論の結論は
「成立する」だった。
というか、「成立する」というこたえを導き出したくて卒論を書いた。
いまとなってはその理由はよく憶えていない。
田舎にいる家族はまがいようもなく全員が血縁者だったし、その家族間に大きないざこざがあったわけでもない。
それでもなぜか、私は家族という関係性を、血縁にだけとらまえてしまうことに抵抗がある。いまでも。
なんというのだろう。
血縁があるから家族だということ、に、抵抗があるといったほうが正しいだろうか。
だからこの南の島の物語の、とある一節に
私はとても深い共感を憶えるのだ。
もちろんどこか夢物語で絵空事で
実際にこんなことは起こりえないだろうこともわかるのだが。
もうひとつ。
家族のなすべきこと。家族の役割について。
たいせつな誰かが苦しんでいたら。悩んでいたら。かなしんでいたら。
私はそのひとをたすけたいと思うだろう。
それがたとえば家族…家族的なもの、と呼んでもいいだろう・・・だったら。
すごく身近なひとで(というか本物の家族で)いまとても苦しんでいるひとがいて
私はいまなるたけそのひとの近くにいるようにしている。
実際に会う、ということもするし
会えない日はメールではなく電話をして
なるたけ直接話す時間をとるようにしている。
すこしでもそれで気がまぎれるならいいなと思う。
あるいは気なんてまぎらわす必要も実はなくって
だから愚痴でもなんでも聞こうと思っていて
それは実際に愚痴だったり怒りだったり悲しみだったり赦しだったり
いろいろなのだけれども
とにかくそばにいることはとても大切なのだと思う。
他愛ない会話をすること。あるいはそうっとそばにいること。
そういえば「カフー」は「果報」の方言、なのだそうだ。
本当に方言なのかな。それとも作者の造語なのだろうか。よくわからない。
果報は寝て待て、という諺があるけれども
幸せは待っていては手に入らない。
そのことを物語がきちんと示唆していることも
私がこのお話を好きな理由のひとつだ。