3月や4月の晴れてあたたかい日は

うらうらとしている。


5月もなかばをすぎた今日は

もう夏のようなきっぱりとした空気。


江國香織さんの「すきまのおともだちたち」を読んだ。

きっぱりとした性格の「ちいさなおんなのこ」と、車も運転できる威厳のある「お皿」と、

旅人である新聞記者の「私」の、友情のちいさなものがたりだ。


ちいさくてあたたかで

とても示唆に富んでいる。


私は江國さんの書くものがたりでは

こうした性質のものがいっとうすきだ。


いくつものすばらしい光景やことばにちりばめられた

このちいさなものがたりのなかで

私のこころをとらえたのは、たとえばこんなことばである。


沈黙ができました。お皿は大きくためいきをつき、例の深みのある声をふるわせて、

「七十年よ」

と、言いました。

「七十年も、私はそこでただ待っていた。もう、若いころのように危険をおかして戸棚からでるわけにはいかなかった。恐かったし、それは滑稽なふるまいであるようにも思えた。

 七十年、ただ待つっていうのがどういうものだかわかる?」

「正直なところ、わからないわ」

 私はこたえましたが、お皿は聞いていませんでした。片手で西日をまぶしそうに遮り、肘掛け椅子の上で身体の向きを変えます。

「私は思い出にしばられるつもりはなかった」

 そう言ったお皿の声音には、威厳さえも感じられました。

「私たちをほんとうにしばるのは、苦痛や災難や戸棚ではないのよ。幸福な思い出なの。それに気づいたとき、私はとびだす決心をした。

 やってみれば簡単なことだった」

お皿はにっこりしました。


なんて十全に、そうしてきっぱりとしたことだろう。

私はこういう、きっぱりとしたことが好きだ。

夏の空のような。今日の空気のような。


そう、確かにわたしを、わたしたちをとらまえてしまうのは

かなしことやつらいことではなくて

楽しかったこと、うれしかったこと、だいすきなこと、たいせつなことなのだ。


たとえばあたたかい腕の内側にさっきまでいたはずのたいせつなひとがもういなかったとしても、

あるいはそうっとわたしをつつむたくましい腕がもうなかったとしても

「あった」ころのことをなつかしみ、その思い出がわたしをしばる。

「あった」ころのことを思うがままにほこりをかぶりつづけて戸棚を出られない。

戸棚の外には、世界があるのに!


そうしてあるときふと、

そう、とてもきっぱりと、

ああそうね、これはもう思い出なんだと気づいたときに、

わたしは戸棚を飛び出して、新しい幸福探しの旅に出るのだ。


そんなことを、これまであったいくつかのことを、

わたしはこのちいさなものがたりになぞらえてみたりもする。


もしもこれからの人生において

長いこと「戸棚」のなかに入っているなあとふと気づくときのために

そのときには新しい旅になるたけ早く出られるように、

今日、このことを日記に書いておきたいと思った。


今日もすばらしい五月晴れ。