金曜日の夜、NHKのプレミアム10でベー・チェチョルさんの特集をやっていた。
ハイビジョンで放送されていたものの再放送の番組。
この番組のことは、あるクラシック音楽のサイトのメルマガを通して知っていて、
放送をすごく楽しみにしていたものだ。

ベー・チェチョルさん。
テノール歌手である彼は、甲状腺癌になり、癌を摘出するために半回神経という、声帯をつかさどる神経を切断することを余儀なくされる。
その結果、一時は声をうしなってしまい、
けれども幾多の手術を乗りこえ、いまはもういちど歌手として舞台にたつために、
苦しいリハビリを続け再起をはかっている。

私がベー・チェチョルさんを知ったのは、彼が手術をすることになった後だったので、
したがって、生で手術前の声を聴いたことはない。

実は私には、なんというか、クラシック音楽に対するある偏見があって、
それはアジア人…日本人を含めて、に、
クラシック音楽の至宝はほとんど出現しないだろう、というものだった。
もちろん日本人を含むアジアのクラシック音楽家にもすごく好きな音楽人はたくさんいるし、
そのひとが来日すると必ずコンサートに行くアジア人ソリストだっているし、
アルバムだって買っているのだが、
こと声楽にかんしては、余計に偏見をもっている節があった。

しかしベー・チェチョルさんの演奏を、いや正確にいうと第一声を聴いたときから、
そういう偏見なんて思い浮かぶ余地すらなかった。

ベーさんは、なんていうんだろう、
たとえていうなら神様に選ばれたひとだと思う。

たぶんその歌声をとおして、多くのひとたちになにかを伝えるために
選ばれたひとだと思う。

私にはとりたてて宗教や信仰はないのに、
そう思ってしまうくらい、本当に本当に本当にすばらしい、
聴いているだけで涙がどんどん出てきてしまうような、
ベーさんの声はそんな声。
ああこのひとの声を、今度は生で聴いてみたい。心からそう思うような。

残念ながらまだ彼の声は、
病気に倒れる前の声までは回復しておらず、
それは聴衆である私よりも、もちろん本人がいちばん自覚していることであり、
プロフェッショナルである彼は、自分が満足できるところまで声が戻らない、
あるいは新しい声を獲得するまでは、
聴衆の前で歌おうとは思わないだろう。

だから彼の歌声をいまいちど聴くことができるのは
まだ先のことだと思う。
そうしてその日を、待ちたいと思う。

このテレビ番組をとおして私がすごく感激したのは、
ベーさんの再起にかける思いももちろんなのだけれども、
それを支えるまわりのひとたちの思いでもある。

たとえば輪嶋東太郎さんのこと。
輪嶋さんは音楽プロデューサーで、私がベーさんを知ることになった
クラシック音楽のサイトを運営している人でもある。

彼はベーさんの歌声と出会って、そうしてベーさんをやはり選ばれたひとだと感じ、
初めての日本でのコンサートをプロデュースしたり、
病と闘うベーさんを、公私共に支え続けている。

ベーさんがこのままずっとステージにあがらなくなってしまうことを心配し、
関係者だけをあつめたちいさなコンサートを企画する輪嶋さん。
輪嶋さんが用意したステージで、賛美歌を泣きながらうたうベーさん。
最後までそのたった一曲の賛美歌をうたいあげたベーさんを、
スタンディングオベーションで祝福するスタッフのみなさん。

輪嶋さんがベーさんをいかに大切に思っているか、
ベーさんがいかに輪嶋さんを必要としているか、
番組を通してすごく感じられて、ああいいなあと思う。
輪嶋さんの思いには、到底かなわないけれども、
私もベーさんの歌声がホールに響く日を、ささやかながら支援し待ちたいと思うのだった。