朝おきたら、一面銀世界だった。
屋根屋根のうえは雪、雪、雪。
そのうちやむかなと気楽に構えていたけれど
いまでも雪はやむ気配がない。
東京でこんなふうに降る雪は、とても、とても珍しい。
やまない雪。

 私はなぜか子供のころから雨が好きだった。特に音もなく静かに雨が降っていると、用もないのに雨の中を歩きたくなる。(中略)
「でも、雨って、そのうちやむからいいんじゃないの?」
 さも当たり前であるように(彼女は)そう言った。
「え?」
「だって、やまない雨ってないわけでしょう?やむって知ってるからいいんじゃない?こんな調子でずっと降っていたら、女の子はみんな前髪がおかしくなるもの」
 そのときの彼女の言葉が、いまでも頭の中に繰り返され、そのたび私は思わず「え?」と声が出てしまう。前髪のくだりではなく、「雨って、そのうちやむからいいんじゃない?」というそのひとこと。

先日読んだ小説に「つむじ風食堂の夜」というのがあって
前段は、そのなかの一編に出てくる素敵なくだりだ。

「つむじ風食堂」というのはどこかのちいさな街にあるちいさな食堂の名前で(本当の名前は別なのだが)、
そこに集うひとたちとそのまわりのひとたちの、ちいさくやさしいできごとでこの小説は満ちている。

雨を降らすことを研究している先生(それが前段の主人公だ)。先生の父である手品師。売れない勝気な舞台女優。父の跡を継いでちいさな劇場の一角のカフェを経営する息子。ちいさな街のちいさな夜をあかるく照らす果物屋さん。

おおきな事件なんてなにも起きないけれども
その物語のひとつひとつはとてもあたたかくやさしくこころを照らす。
ときにははっとするような驚きをもたらす。

「そう、手品。あのな、俺はこのごろ新しい手品の夢を見るんだな。これが、なかなかいい。これはな、お前だけに言っとくが」
 急に父は、わざとらしい咳払いをひとつすると、それから声をひそめてこう続けた。
「・・・虹をな、つくる手品なんだ」


「ここが美術館になるというとき、親父がずいぶん食い下がって、なんとかこの一角だけ残してもらえたんです」
「奇跡ですね」
「まったくです。親父が異常なくらいこの店にこだわったのも、僕からするとうそみたいなことでしたが。でも、ずいぶん経って分かったんですが、親父は自分が店を続けたくてねばったんじゃなく、この場所に昔いた人たち、芸人さん、役者さん、皆さんへの思いがあってのことだったんです」


「傷は、そこに人が生きた証しですから」
 近所の古道具屋の親父が、そんなことを言っていた。そんなことを言っては、傷ものを売りつけてくるのだが(後略)


 もし太陽が死滅してしまったら、それきり昼間は消えてしまうのだろうが、夜は宇宙が存在する限りそこにあり続ける。
 夜とは、すなわち宇宙のことなのである。
 宇宙が死滅すれば、たぶんすべてが消えてなくなってしまうだろうから、われわれがたどりついたちっぽけな概念に従って言うなら、
 「夜は永遠である」
 そういうことになる。

作者の吉田篤弘さんは、装丁家でもあるらしい。
なるほど絵が浮かぶような文章で、そのせいもあってこのものがたり世界に私は引き込まれてしまう。

「つむじ風食堂の夜」はそんなふうに
素敵なものがたりで
ふりつづける雨、ではなく雪の日にもぴったりだと
もういちど書棚からひっぱりだしてみる。