川上弘美さんの小編集「おめでとう」を読んだ。
川上さんは「センセイの鞄」ではじめて読んだひとなのだが、
以来、たいていの作品を読んでいる。

好きなのと好きではないのがあるひとだ。
あいいなと思う作品と、あまり好きではない作品。
その差が私にはよくわからない。ただそう感じる。

「おめでとう」に載っているのは
すべて恋愛に関する小説だ。
それもちょっとやるせない。

たとえば結婚した女性と以前に付き合っていた女性との逢瀬。
心変わりしてしまった恋人との数年後のつかのまの時間。
家族があるどうしの男女のたった一日の物語。

私はそういう、やるせない関係が苦手だ。
やるせない関係のやるせない話。

「おめでとう」のなかに「川」という、数ページ足らずの短い作品がある。
一郎と鳩子というカップルが、ある晴れた日に河原に散歩に行く、それだけの話。
それだけの話なのだが、こころに残る。

一郎はいつもちょっと勝手で、たとえば「わたしたち」はいつも一郎の住んでいる駅の改札で待ち合わせをして一郎の部屋に行くのに、一郎はわたしの部屋にくることはほとんどない。
なんだかなあ、とわたしは思う。なんだかなあ。
コンビニでお弁当におこわなぞを買ってから河原に行っても、酒を買うのを忘れたと、一郎はわたしをひとり土手に置き去りにしたりする。
そうして買ってきたお酒の「ちょうどよさ加減」を自慢して、そんな一郎を、なんだかなあではなく、なるほどね、とわたしは思う。

一郎とわたし、は、そんな関係だ。

空は晴れ。
うとうとと眠くなってきたわたしがごろりと横になると、鴫がちいちい鳴いていて、川の流れが聞こえる。

ここからのくだりがとても良いので、少し長いが引用しよう。


「川、流れてるね」一郎の顎を下から見あげながら、わたしは言った。
「流れてるさ、そりゃあ」一郎は答えた。
「流れてないように見えた、さっき」
「よっぱらい」
「そうじゃなくて」
説明しようとして一郎を見上げると、一郎もわたしをじっと見ている。上と下から二人して見つめあった。
鴫が、いくらでも、ちいちい鳴く。一郎の目を見ているうちに、じんわりと涙が出てきた。こんな瞬間はもうないような気がして、涙が出てきた。
「泣き上戸だ」一郎がおかしそうに言った。
「ちがう」
「おこわおいしいよ。固いけど」
「固いからおこわだもん」
横たわる姿勢なので、涙が鼻のほうに流れてくる。そんなにたくさん泣いていないのに、鼻声になってしまう。
(中略)

「一郎、こういうときがまた来るかな」
「来るよ、二人で一緒にいれば、何回でも来るよ」
鴫が、やたらにちいちい鳴く。
「二人で、一緒に、いられるかなあ」
「いられるよ」
一郎は喉を鳴らしてビールを飲む。日差しが、やわらかい。
「ほんとに?」
「ほんとにさ、ほんとだから、もっとちゃんと鼻かみな」
「うん」
わたしはちいさな子供のように、頷いた。


だれでも日常の幸福のなかでよろこびやあんしんやちいさな不満や不安を同時に持っているだろう。
針がしあわせにふれているときは、ああうれしいなと思い
ふしあわせにふれているときは、いやだなと思う。
もっとこうだったらいいのに。どうしてこうしてくれないの。
わたしはこうしているのに。どうしてあなたはそうなの。

それでもたとえばこのたったひとりのたいせつなひとと一緒にいることだけが
私にしあわせな気持ちを運んでくるということがわかっていて、
だからこそこのいまの状態がずっと続いてほしいのに
ずっと続いていくよねということにたいして漠然と不安で仕方がなくて
でもそんなちいさなことを気にしている自分もいやで

そんなことが、この小説にはとてもよく出ているなあと思う。

「二人で、一緒に、いられるかなあ」

「、」を使わずには聞けない、この勇気ある質問!

男のこたえに胸をふるわせながらも
「ほんとに?」と聞き返さずにいられない、おんなの思い。

恋人と散歩をしていて、空にうかんだまるい月がぽっかりときれいで
あまりにもきれいで涙が出たとき。
ちょっとした旅先の山道。数歩先をいく恋人の汗ばんだせなか。
真夏の夜。むんむんとした熱気のなかをだらだらと歩いているとき。そっと握った手がとてもあつかった。
隣の部屋でへんな調子のうたを何度もうたっている声。

そんなものものを目にしたとき
感じたとき。一緒にいるとき。

私も聞きたくなる質問だ。

そうしてそのこたえにたぶんそんなに意味なんてなくて
ことばよりも重要なことはたくさんあって
むしろことばなんかよりもずっと
日々つづいていく、この事実のほうがずっと重要で
つづけていく、このゆるやかでおおきな決意のほうがもっと重要で

でもことばをたいせつにしたくなる
おんなの気持ち、というのはいつだってよくわかるのだ。