ひとはなんのために本を読むのか。

読みたいから、というのは理由にはならないだろう。
でもそれ以外に私には、もはや本を読む理由はわからない。
それでも本屋さんで本を選ぶときには、なにかしらの選択基準が働いているわけで、
それは好きな作家さんの新刊だったり、タイトルや装丁にひとめぼれをしたり、帯やカバーの紹介文が気になったりということだ。

田口ランディさんのことは、ずっと前から知っていた。
新刊が出たら必ず読む、という作家さん群のひとり、よしもとばななさんのエッセイにたびたび「ランちゃん」という愛称で登場してくるからだ。
でも「ランちゃん」の本を読もうと思ったことはないし、なにしろ男性か女性かも知らなかったくらいだ。

つい数週間前のこと、いつものように書店に文庫本まとめ買いをしに行ったときに、
田口ランディさんの「ドリームタイム」が平積みされていて…目を伏せて泣いている女のひとと、意志的な目をした女のひとが合わせ鏡のようになっている表紙の本…、それではじめて、田口さんの本を手に取った。

幸運な出会いというほかないだろう。
なぜならばそのことがきっかけで、私はまぎれもなく新しい世界に踏み込むことになるのだから。

たとえばきもののこと。
明確に、私がきものを着たい、というよりも着なくてはならないと思ったのは、
この「ドリームタイム」のなかのいくつかの小編の影響にほかならない。

この「ドリームタイム」からも、その後に読んだ、田口さんのいくつかの小説からも、
スピリチュアルなものをぷんぷんと感じて、私はスピリチュアルなものは嫌いではないし、
自分自身や末弟の体験からも、人間の目に見えないものの存在、は、理解しているのだが、
それでもそれがあまりにもぷんぷんとしてしまうとすこし嫌な気持ちになる。
ただ田口さんの作品におけるスピリチュアルさというのは、ものすごく崇高で、それでいて自然で、そこにあるべきものという感じがするのだ。うまくいえないのだけれども。
だからすんなりと受け容れられるし、好きだと思う。

そうしてときどきはっとすることにぶち当たる。
だいたい小説の登場人物というのは、類型化されているので、どこかしら自分に似ていたりするひとが出てくるし、だからこそ共感も憶えるものだ。

「富士山」という短編集の「ひかりの子」という小編。
そこに出てくる小林さんという女性が、あまりにも自分に似ていて泣いてしまった。
「ひかりの子」は、罪悪感のかけらもなく堕胎していく女の子を赦せない産婦人科看護師の「私」と、通り魔にお腹の子を殺された中年の女性がひょんなことから女性だけの富士登山をする、という話だ。
その登山メンバーのなかに、小林さんがいる。

小林さんは子宮がんの末期で(「私」の母も子宮がんで若いころに亡くなっている)、もう余命いくばくとない。
そのなかで、病気を隠して富士登頂をめざす。
もちろん看護師である「私」は登山の中止を促すのだが、その「私」に小林さんはこういうのだ。

富士登山は私のカルマ落としなの。と。

(前略)
「そうよ。人間はここぞって時にがんばらないとね。だけどワタシの場合はそうじゃなかった・常にがんばっちゃったの。なにしろ長女でね、子供の頃からあんたがしかりしなさいと言われ続けてきたからね、すっかりそれが自分の性格になって身についてしまったんだね。私がしっかりしなくちゃ。私がやらなくちゃ。私が私が私が・・・ってね。家族のことも、家業のことも、自分で取り仕切らないと気が済まない。誰にも頼ろうとせず、なんでもかんでも自分で抱え込んで、私が私が私が・・・。いつの間にか子供たちもよりつかなくなって、夫はよそに女を作って出ていった。みんなのためにと思って生きてきた結果が独りぽっち。でもね、考えてみたらみんなのため、家族のためって言いながら、結局は自分のためだったんだね。自分ががんばって、周りの人間をみんなダメ人間呼ばわりしてきた。これが業。だからね、この富士登山は私のカルマ落としなの。最後の最後にとことんがんばって、もうこれで終わりにしようと思うのよ。これまでの私の人生をね。そして新しく生き返るの。だからね、まだがんばる」
 よいしょ、よいしょ、と小林さんは笑いながら足を踏ん張る。
(後略)

小林さんの持つ業は、業というものあるならば、私のそれにとても近い。
悲しいくらい近しくて、そうしてものがたりのなかのひととはいえ、そういう先達がいるからこそ私は自分の業に気づくことができる。
業ならば変えられないかもしれないけれども。
それでも気をつけることはできるだろう。最後の最後がくる前に。

そんなことに気づいたりできるのも、本を読むことの理由かもしれない。