「オトコは”つまらない”くらいがちょうどいい」
というのは、私の母の格言である。
大学を出たばかりだったか、大学生だったか、
ともかくそんな時分の私をとっつかまえ、こんなことをいいはじめた。
ナオね、男性は社会で生きていくイキモノなの。
いまは「つまらない」と思っても、職場でもまれたり、部下ができたりすることで、必ずオトコは成長する。
お母さんも昔はお父さんのこと、なんてつまらないひとなんだと思ったけれども、いまはお父さんはすごい。
だからナオもね、云々かんぬん。
説教?はその後も続くのだが、そうしてどうにも世の中に対して上目線であることは誤魔化しようもないのだが。
ともあれ、この格言は言いえて妙、ではないかと思う。
ことにずいぶんと年を重ね、その昔、失礼ながら面白みに欠けるなあと思っていた男性の成長を横目で見ているときなどはなおのこと。
そんな格言というか箴言といおうか、戯言といおうか、
芥川龍之介の「侏儒の言葉」はなかなか含蓄にあふれたアフォリズムであふれている。
「幼児」
我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか?その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。
「阿呆」
阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。
「処女崇拝」
我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽なる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けて好い時分である。
「鼻」
クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
アントニイもそう云う例に漏れず、クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、努めてそれを見まいとしたであろう。又見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探したであろう(以下略)
とこんな具合で、物事がずばりずばりと切られていく。
ときに自虐的に、シニカルに。
しかしいつも思うのだが。
どうしてこう、文化人とよばれるひとたちは
こんなにも年中、発情期的なんだろう。
いや全員がそうでもないのだが、それでもそういうふうに見受けられるひとが多い。
もちろん現代にいたっても。
だいたい芥川龍之介のこの「侏儒の言葉」も、もっとも多いのが女人や恋愛に対する見解である。
それは発情期的なことこそが人類共通のテーマだからなのか、
発情期的時期に創作活動をするからなのか、それとも発情期的感情が創作の源なのか。
いずれも当たらずとも遠からずというところだろう。
それにしてもここで最後に紹介した「鼻」については、自分の身に照らすとあまりにもおかしくて
何度読んでもくすりとする。
というのは、私の母の格言である。
大学を出たばかりだったか、大学生だったか、
ともかくそんな時分の私をとっつかまえ、こんなことをいいはじめた。
ナオね、男性は社会で生きていくイキモノなの。
いまは「つまらない」と思っても、職場でもまれたり、部下ができたりすることで、必ずオトコは成長する。
お母さんも昔はお父さんのこと、なんてつまらないひとなんだと思ったけれども、いまはお父さんはすごい。
だからナオもね、云々かんぬん。
説教?はその後も続くのだが、そうしてどうにも世の中に対して上目線であることは誤魔化しようもないのだが。
ともあれ、この格言は言いえて妙、ではないかと思う。
ことにずいぶんと年を重ね、その昔、失礼ながら面白みに欠けるなあと思っていた男性の成長を横目で見ているときなどはなおのこと。
そんな格言というか箴言といおうか、戯言といおうか、
芥川龍之介の「侏儒の言葉」はなかなか含蓄にあふれたアフォリズムであふれている。
「幼児」
我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか?その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。
「阿呆」
阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。
「処女崇拝」
我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽なる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けて好い時分である。
「鼻」
クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
アントニイもそう云う例に漏れず、クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、努めてそれを見まいとしたであろう。又見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探したであろう(以下略)
とこんな具合で、物事がずばりずばりと切られていく。
ときに自虐的に、シニカルに。
しかしいつも思うのだが。
どうしてこう、文化人とよばれるひとたちは
こんなにも年中、発情期的なんだろう。
いや全員がそうでもないのだが、それでもそういうふうに見受けられるひとが多い。
もちろん現代にいたっても。
だいたい芥川龍之介のこの「侏儒の言葉」も、もっとも多いのが女人や恋愛に対する見解である。
それは発情期的なことこそが人類共通のテーマだからなのか、
発情期的時期に創作活動をするからなのか、それとも発情期的感情が創作の源なのか。
いずれも当たらずとも遠からずというところだろう。
それにしてもここで最後に紹介した「鼻」については、自分の身に照らすとあまりにもおかしくて
何度読んでもくすりとする。