小説と音楽と映画と絵画。
敢えて捨てるものを選ぶなら、私は迷わず絵画を選ぶ。
もちろん好きな画家は何人かいるし、そうした画家たちの美術展には足を運ぶ。
旅先では美術館に立ち寄るし、家には何枚か絵が架けてある。
おまけに何を隠そう、昔・・・それもだいぶ昔に油絵をかじっていたことがあって、自分でつくったカンバスにへたくそな絵を描きつけていたことだってあるのだ。
父も絵を描くひとで、近年は筆を折ってしまったが、家にはずっとイーゼルがあった。
ただ、それでも。小説や音楽や映画の、私における役割または価値には、絵画のそれは遠く及ばない。と思う。

江國香織さんの「日のあたる白い壁」を読んだのは、だからこのエッセイのモチーフである絵画や画家たちに拠るのではなく、単純に江國さんが書いた本だからだ。
ただこの本は読み始めてすぐに、「読んでよかった本」に分類されることがわかった。
それはとても貴重なことだ。

江國さんは、なにかの気配をすくいとって閉じ込めることがとてもうまいひとだと思う。
そういうところは小説よりもエッセイに遺憾なく発揮されているように私には思える。

たとえばこんなふうに、画家たちは、絵画たちは、話される。

パリの絵、といったのは、パリの女の絵ではなく、パリの画家の絵。たとえばユトリロの、たとえばモディリアニの、絵に感じるものと同種だ。---東郷青児「巴里の女」

たとえばゴッホが風を閉じ込められる画家なら、セザンヌは風を消してしまえる画家だ。---セザンヌ「すいかのある静物」

私自身は、ゴッホの青が好きだ。青というより紺なのだが、あれほど深くつめたく澄んだ青は他にない。落ち着くし、高揚する。---ゴッホ「夜のカフェテラス」

このエッセイのなかには、宗教画から現代アートにいたるまで、23の絵画(正確にいえばもっと)が紹介されていくのだが、全編にわたって、知っている画家や作品については、深い納得感を、知らない画家については明確な興味を、こんなふうな言葉からそれぞれ与えてくれる。

ここでいう納得感、というのは、なんというか、これまで私自身が絵を前にして、もやもやとして言葉にできなかったものを、ずばりずばりと的確な(少なくとも私にとっては)言葉に置き換えられていることによるのだと思う。
それはほんとうに、すごいことだ。

だからこの「日のあたる白い壁」は、
一気に最後まで、どきどきとしながら読んだ。
私は気に入ったことばがあるページは角をちょっとだけ折るようにしているのだが、
この本は角が折れ曲がったところだらけになってしまった。それくらいに。

もちろんだからといって、私のなかの絵画の位置づけは
一朝一夕には変わるものでもないだろう。
ただ今度美術館に行ったなら。
いままでとはまた違うなにかを絵画からもらえそうな、そんな気がする。