はじめてこの場で日記をかきはじめたのは
2005年3月のことだ。

おいしいものを食べるのが大好きで
そうしてほんとうにおいしいものの影には
いくつものおいしいものをささえるなにかがあって、
それを感じる機会がおおかったから、その感じたことを書き留めておきたいなと思ったのが
日記をかくきっかけだった。

以来、2年とすこし。
もちろんおいしいものを食べるのは毎日ではないから、
必然的に日々のこと、日常の、起こったり起こらなかったりするできごとを
つらつらと書いているときがほとんどにはなったけれども
ほそぼそと(でもないか)日記はつづいている。

始めてみるまでわからなかったことなのだけれども
日記というのは自助作用がずっと深く広くある。
想定しているよりも、ずっと。
思えば小学校にあがる前の小さなころから、大学生になるくらいまで、
日記のようなものは書いてきていたのだ。
だから私にとっては、書くとういこととこころのなかを整理するということは
とても近しい関係性にあるのだろうと思う。

たとえば。
帰りがけに見つけたきれいないろのガラス玉をそっと引き出しに入れておくような、
あるいは引き出しの奥底に、むかしひろった貝殻を見つけるような、
日記を書くというのはそんな作業に近しい。
自己表現というよりは、そう、机の引き出しのなかにほうりこんだり、
あるいは逆に、ずっと以前にほうりこんだものをそっと取り出したり思い出したり、あるいは整頓するようなもの。

2年とすこしのあいだに、
いろいろなことがあった。
こころからうれしいことも、かなしすぎて忘れられないことも。
たくさんあった。

こころをさらけだすようなことは辞めようと
思った時期もあって、
そのころの日記を読むのはいまはつらい。
自分に蓋をしているなあというのがわかるから。
そうして蓋をしてしまった理由というのも、蓋をした以上は結局のところ忘れられないから。

そういう曲折も経て、
だからいまの日記には、ほとんどきちんと、思うところを書いている。
ささやかなこともあれば、おおきなこともある。
ぜんぶ書きたくないことは、さわりだけとか気分だけを書いている。
ともあれそれはいずれも、ありのままの自分。
たぶんそれはありのままの私。

結局のところ自分は自分でしかなく
いいところもいやなところも
うれしいこともかなしいことも
ぜんぶぜんぶ含めて自分なのだとわかったのは
そうしてどんなときとかどんなこととかどんな場所とかが
自分は好きで嫌いかがほんとうにわかったのは
やっぱりこの日記の成せるところが大きいように思う。
なにしろ日々、これが好きだとかこれがかなしかっただのと書いているわけなのだから。

もちろんありのままの自分を書くことで
消化し昇華されるというひとと
そうでないひとはいるだろうと思う。
ほかの表現手段を持っている人もいるだろう。
お酒を飲むとか、うたをうたうとか、絵を描くとか、そういういろいろなこと。

ただ日記の効用というのは
こんなところにこそあるのだと
だからこそこころのなかを書くことは
それはあなたがいうように決してネガティブな日記などではなく
ありのままの日記なのだということを
私はつたえたいと思う。

いつもあなたにたくさんのちからをもらっている私の
あなたにできる数少ないことのひとつが
そのことだと思う。

あなたがこれを読んでいるかいないかは
わからないけれど。