探偵小説は古びた喫茶店で、コーヒーを前に煙草をくゆらせながら読むのがいい、とされている。だとすれば、エッセイ集は旅先のホテルで、時間をもて余した時にベッドにひっくり返って、探検記は日曜日に公園で子供を遊ばせながら、木陰のベンチで、詩集は郊外の乗り換え駅のホームで、最終便の電車を待ちながら、大河小説は入院した家族のつき添いで病院に泊まりこんだ時、誰もいない夜中の待合室で読むのがいい、ということになるだろう。
これは、別役実さんの童話集「淋しいおさかな」の巻頭言の一節である。
なるほど。なるほど。
この短い文章のなかには、確かに本を読むときにある「気分」のようなものがてもよくあわらされているように思う。
たとえば明るいひかりがあふれるオープンテラスのカフェや公園で読みたいのはドストエフスキーではなく村上春樹のような気がするし、雨の夜には恋愛小説が似合うというようなことは、私も思う。
よーし本を読むぞ。
と大上段に構えて読むことは、私の場合はほとんどない。
月に何度か書店に赴き、目に付いた本を十数冊買ってくる。
それを片っ端から読む。というのが私の本との接し方なのだが、しかし片っ端からといっても、やはり買ってきたものには無意識にせよ恣意的に順番をつけ、あるいは本を読む場所・読まない場所を選んでいる。
もちろん厳密に「選ぶ」ときもあり、もっとも特徴的なのは旅行にいくときだ。
数泊の国内旅行なら上下巻くらいの小説を、海外にいくときなどは、それこそロシア小説(長い上に名前が憶えにくいため、読むのに時間がかかる)や、山崎豊子さんの本(本が厚い上に長編が多く、しかもディテールが細かいので読み返しに適している)を、あるいは当地が舞台となっているような本を、きちんと選んで持って行く。
ポルトガルに行ったときは壇一雄と宮本輝を読んだし、プラハへは春江一也を携えた(おかげで相当ロマンティックな気分の旅行になった。一人旅でも、十分)。
そんなふうにして。
本は読まれていく。
ちゃくちゃくと。延々と。
さて週末に、また本を大量購入してきた。
最近はまたあまり時間がとれなくなってきて
ぎゅうぎゅうづめの満員電車か寝る前かはたまたお風呂でかしか読む時間がとれない。
なんてつまらないことだろう。
それでも今夜、お風呂の中で、あるいはベッドに入る前にどの本を読もうかと
「まだ読んでいない本をためておく棚」をさぐるのは
本を読んでいるときと同じくらいにどきどきとするものなのだ。
これは、別役実さんの童話集「淋しいおさかな」の巻頭言の一節である。
なるほど。なるほど。
この短い文章のなかには、確かに本を読むときにある「気分」のようなものがてもよくあわらされているように思う。
たとえば明るいひかりがあふれるオープンテラスのカフェや公園で読みたいのはドストエフスキーではなく村上春樹のような気がするし、雨の夜には恋愛小説が似合うというようなことは、私も思う。
よーし本を読むぞ。
と大上段に構えて読むことは、私の場合はほとんどない。
月に何度か書店に赴き、目に付いた本を十数冊買ってくる。
それを片っ端から読む。というのが私の本との接し方なのだが、しかし片っ端からといっても、やはり買ってきたものには無意識にせよ恣意的に順番をつけ、あるいは本を読む場所・読まない場所を選んでいる。
もちろん厳密に「選ぶ」ときもあり、もっとも特徴的なのは旅行にいくときだ。
数泊の国内旅行なら上下巻くらいの小説を、海外にいくときなどは、それこそロシア小説(長い上に名前が憶えにくいため、読むのに時間がかかる)や、山崎豊子さんの本(本が厚い上に長編が多く、しかもディテールが細かいので読み返しに適している)を、あるいは当地が舞台となっているような本を、きちんと選んで持って行く。
ポルトガルに行ったときは壇一雄と宮本輝を読んだし、プラハへは春江一也を携えた(おかげで相当ロマンティックな気分の旅行になった。一人旅でも、十分)。
そんなふうにして。
本は読まれていく。
ちゃくちゃくと。延々と。
さて週末に、また本を大量購入してきた。
最近はまたあまり時間がとれなくなってきて
ぎゅうぎゅうづめの満員電車か寝る前かはたまたお風呂でかしか読む時間がとれない。
なんてつまらないことだろう。
それでも今夜、お風呂の中で、あるいはベッドに入る前にどの本を読もうかと
「まだ読んでいない本をためておく棚」をさぐるのは
本を読んでいるときと同じくらいにどきどきとするものなのだ。