昨日は七夕。

私のうまれた地方では、七夕は旧暦でお祝いをしていたので、
7月7日の七夕はすこしだけ違和感がある。
毎年裏庭に生えている竹を切って、七夕の飾り付けをした。
いろいろなかたちの折り紙を折ってつけたり、短冊に願い事を書いたり。

子どのもの頃になにを願ったかはもはや憶えていないけれども
おそらくは背が大きくなりたいとか算数の成績がよくなりますようにとか
幼ければ幼いほど即物的な願い事だったように思う。
そうでないもう少し壮大な願い事も書いたことはあるけれども、そういう願い事を書くときは少しおとなぶっていたようにも思う。

そうしてきょうだいや親たちの願いをつるした七夕のそれは、
1ヶ月後の夜に近くの川に竿ごと流す、というのが風習で、
いまそんなことをしたらもしかしたら環境破壊とかなんとかいわれてしまうのかもしれない。

でもそのころはまわりの家々はみなそういう風習をきちんと守っていて、
川べりにいくと笹を流しにきた子どもたちや親たちがたくさんいたものだ。

いまは東京に住んでいるから、
7月7日に七夕をする。
今年は花屋さんで買っておいた笹に、千代紙とこよりでつくった短冊をつるした。

お願い事を書いてね。といって短冊を渡したら、
七夕なんてやったことない、どうやるの、と恋人はたずねる。
韓国にはそういう風習がないのかそれとも恋人の家は七夕をやらない家だったのか、それはわからないけれども、ふうんと興味深そうに、しばらく悩んだ末に、ひとつだけ願い事を書いていた。
私は3つ、願い事を書いた。
おとなになると願い事はシンプルになる。でも本当に願っていることは書けなくもなる。

短冊に書こうと書かなかろうと
かなう願いもあればかなわない願いもある。
それを知っているからといったら少しロマンがなさすぎるだろうか。
それともほんとうに願っていることを口に出せるほど
無邪気ではなくなってしまったことを恥ずべきなのだろうか。

ただ思うのは。
願いをかなえるために短冊にしるすのではなく
願うべきことはなんだろうと思うために
願いを言葉にして見つめるために
もしかしたら短冊はそのためにあるのかもしれないということ。

きれいないろとりどりの短冊を飾った笹は
リビングのすみで午後の風に揺られている。


たなばた