私の思い違いかもしれないが、いまは児童文学ブームなのではないかと思う。
書店に行くと、おとな向けの本のなかに、ものすごく多くの児童文学を見る。
一昔前よりも、ずっと。
それらは「児童文学ですよ」という顔をしていないので一見してわからないし、これは児童文学ですよ、だからおとなは読んではいけません、というわけではないので、ここのところ児童文学を読む機会も相当に増えた。

あさのさんのこの「あかね色の風/ラブ・レター」は、児童文学、という分野になるのだろうか。
あさのあつこさんの作品を読むのは、これが初めてである。
(数々の文学賞を受賞している「バッテリー」は書店で平積みをしていないところのほうが珍しいくらいで、
いったいどんな作品なのだろうとは思っていたものの)

児童文学、というものは、子どもの頃に本当にたくさん読んだ。
というのも、私の家は、母の方針で子どもは「子どものための本」しか読んではいけなかったからだ。
たとえ太宰であっても芥川であっても、原書が読める年齢になるまでは、子ども用にやさしく訳された(省略されたともいう)名作は読んではならない、なぜならば読んだときの新鮮な驚き、感動が薄れるから、というのがその理由で、一理あるといえばいえるし、そうでもないといえばそうでもないと思う。いま思えば。

しかし当時は、両親のいいつけは厳密なものだったので、もちろんそのことばを守り、したがって原書が読める小学校高学年になるまでは、ひたすら児童文学を読んだ。
休み時間。放課後。休みの日。眠る前。
おけいこや弟達の世話や家事の手伝いをしない時間は、たぶんずっと本を読んでいるような子どもだったから、そんな時間はとに
かく本を読んでいたはずだ。

名作といわれる児童文学というものに共通するのは、主人公が等身大の環境にあり年齢であることと、「素敵な」友だちや隣の家のひとやいとことなんかがいることと、状況のほんの少しの美化と、あとは未来性ではないかと思う。

かなしい事件が起きても。暴君がいても。どんなに貧乏でも。家族と疎遠でも。
まったく変えようがなくどうしようもないなんてことはないし、あるいはそれそのものが変えようがなかったとしても、必ずどこかに救いがある。
それが年齢の離れたとなりの家のお姉さんのひとことだったり、夏休みにだけ会う田舎の祖父母だったりする。
あるいは転校だったり身近なひとの死だったり、ときにその「救い」は強引だ。
でもそれでも、そういう突然の「救い」を夢想することで実際に救われる子どもがいるというのも、また事実だろう。
(現に子どものころの私がそうだったように…私などなに不自由ない子ども時代を過ごしたというのに)
昨日と今日と明日がいやな日でも、明後日か一週間後か一年後にはいい日もある。
それがきちんと書かれている。

きれいごとといえばきれいごとである。
たとえきれいごとであっても、等身大であるところの「私」や「ぼく」がそこに可能性を見出し、勇気をもらえること。
それが児童文学のあるべき姿であると私は思うし、
そうして児童文学の世界にまで、絶望が侵食してしまったら、それはもうこの世の果てなのではないかと思う。

あさのさんの本が、だから児童文学として高く評価されているのは、そういうところにもあるのだろう。
等身大の、きれいごと。
子どものいない私には、このあさのさんの作品に描かれている子ども達が「現代」っぽいのかどうかさえ判別がつかない。
私が子どものころにもこういう子はいたなあと思うし、こういう大人もいたなあと思う。
そういえばこんなこともあったなあと思い出したりもする。

そういうことをとおして・・・
子どものころに起きてきたいくつかの出来事のほんとうの意味を、
いまの自分に問い直してみたりする。