伊坂幸太郎さんの「チルドレン」を読んだ。
少し前に、「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んでいて、
この作者の名前は頭にブックマークされていた。
(そういえばアヒルと鴨の、は映画になったみたいですね)
「チルドレン」はなかなかいい小説だった。
いつの頃からか文壇を席巻しているように見える連作短編小説なのだが、
全編に登場してくる、キーパーソンのような「陣内」という男性が、とても魅力的だ。
実に痛快というか爽快というか。
日ごろの言動は乱暴でオレサマ的態度ばかりをとっているのだが、
根底にあるものはとてもシンプルだ。
突拍子もない陣内の、その偽善のなさに、私はこころ打たれる。
たとえば。まちを歩いていて。
全盲の青年がいたとしよう。
全盲の青年が、かしこそうな盲導犬を連れて歩いている。
私は目が悪いんだな、かわいそうに。
と思うだろう。
間違いなくそう思うだろう。
「チルドレン」の登場人物のひとりに、全盲の青年がいる。
知性にあふれた穏やかな人柄の、どこにでもいる青年だ。
うまれたころから目が見えない、そのことを除けば。
その青年・永瀬が、ある日、恋人と待ち合わせをするために町でひとり立っていたときに、「親切な」ひとりの女性から5千円の施しを受ける。
永瀬はそうしたことにもう子供の頃から慣れていて、その善意を自然に受け止めることにしている。
「僕はどこに行っても、募金活動をしているように見えるらしい」といって。
そんな永瀬を目にするたびに、恋人は胸を痛める。
永瀬が「過剰な親切」を受けるたびに、憂鬱な気分になると恋人はひとりごつ。
ところが件の陣内が、永瀬が5千円の施しを受けたことを知ったときのエピソードはこんなふうなのだ。
(以下、「わたし」は「永瀬」の恋人である)
「ふざけんなよ」陣内君が声を上げた。
「いいんだ。悪気はないんだよ」婦人を庇う口ぶりだった。てっきりわたしも、陣内君は「善意を押しつけてきた婦人」に怒っているのだと思った。ところが陣内君は、「よくねえよ」とつづけてから、さらにこう言った。
「何で、おまえだけなんだよ!」
「え」はじめは冗談を言っているのかと思った。
「何でって」永瀬も口ごもった。
「何で、おまえがもらえて、俺がもらえないんだよ」
「たぶん、僕が盲導犬を連れているから、じゃないかな。目も見えないし」
「は?」陣内君が唖然とした顔になった。心底、訝しそうだった。「そんなの、関係ねえだろ」
「え」とわたしはもう一度間の抜けた声を出してしまった。
「関係ないっつの。ずるいじゃねえか」と喚いた。
わたしは、その時の陣内君が発した、「関係ない」の響きが、とても心地よかったのを今でも憶えている。永瀬も顔をほころばせていた。
その後、陣内は、どうしておまえだけ特別扱いなんだ?そのおばさんどこに行ったんだ?と、自分も施しを受けようと必死でおばさんを探しはじめて、それを見て「永瀬」と「わたし」は必死で笑いをこらえる、というシーンに続く。
そうして後々にこの日のことを思い出した「永瀬」と「わたし」はこんな会話をかわすのだ。
「あの時の陣内は、本当に、普通だったなあ」と永瀬がしみじみと言ったことがある。わたしも同意見だった。あれほど「普通」に振舞うことなんて、普通はできない。
そう。普通はできない。
私にもできない。おそらく。きっと。
そもそも「普通」に振舞っていいのかどうかを、私はわからない。
私の実家には、代々、時折精神障害を持って生まれてくる子がときどきいて、いちばん近い存在が父の祖父だ。
そもそも私の母が、私の実家では初めての「赤の他人」だったという、ちょっと恐ろしい家なのである。
曾祖父には、私が生まれてくるころにはとっくに亡くなっているから、私は会ったことがない。
父からの思い出話や写真で知るだけだ。
ものすごく背が大きくて、一日中ぼーっと外に立っていたらしい。
だからだろうか、父は精神障害や身体障害を持つ人に、とても自然にふるまっている。
ものすごく自然に手を差し伸べたり、離したりできる。
高校のときの友だちの娘さんも、障害を持って生まれてきた。
年賀状には、毎年その子のにこにことした写真がうつっている。
うまれた年には、鼻から出た細いチューブが隠しようもなく写っていたし、年々成長をしてくその子の写真は、明らかに同世代の友人たちの子どもたちとは違う。
私などは、年賀状をもらうたびに、すこしどきどきしてしまうのだが、
毎年年賀状に写真をえらぶ友人は、きっといろいろなことを乗り越えつつも、「普通」になっていっているのだろうと思う。
たまたま私の弟が、その娘さんの主治医だった時期があり、したがって友人のことも知ることになったのだが。
そんなようなことを、弟もいっていた。
私もそういうふうに…父とか、友だちのように、
いつかなれるんだろうか。
それが正解かどうかはわからないけれども。
それでも。なれたらいいなと思う。
そう思ってしまう時点で、なんだかダメだなーって私って。と思ってもしまうのだが。
そんなようなことなどを
「チルドレン」を読みながら思ったりもした。
少し前に、「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んでいて、
この作者の名前は頭にブックマークされていた。
(そういえばアヒルと鴨の、は映画になったみたいですね)
「チルドレン」はなかなかいい小説だった。
いつの頃からか文壇を席巻しているように見える連作短編小説なのだが、
全編に登場してくる、キーパーソンのような「陣内」という男性が、とても魅力的だ。
実に痛快というか爽快というか。
日ごろの言動は乱暴でオレサマ的態度ばかりをとっているのだが、
根底にあるものはとてもシンプルだ。
突拍子もない陣内の、その偽善のなさに、私はこころ打たれる。
たとえば。まちを歩いていて。
全盲の青年がいたとしよう。
全盲の青年が、かしこそうな盲導犬を連れて歩いている。
私は目が悪いんだな、かわいそうに。
と思うだろう。
間違いなくそう思うだろう。
「チルドレン」の登場人物のひとりに、全盲の青年がいる。
知性にあふれた穏やかな人柄の、どこにでもいる青年だ。
うまれたころから目が見えない、そのことを除けば。
その青年・永瀬が、ある日、恋人と待ち合わせをするために町でひとり立っていたときに、「親切な」ひとりの女性から5千円の施しを受ける。
永瀬はそうしたことにもう子供の頃から慣れていて、その善意を自然に受け止めることにしている。
「僕はどこに行っても、募金活動をしているように見えるらしい」といって。
そんな永瀬を目にするたびに、恋人は胸を痛める。
永瀬が「過剰な親切」を受けるたびに、憂鬱な気分になると恋人はひとりごつ。
ところが件の陣内が、永瀬が5千円の施しを受けたことを知ったときのエピソードはこんなふうなのだ。
(以下、「わたし」は「永瀬」の恋人である)
「ふざけんなよ」陣内君が声を上げた。
「いいんだ。悪気はないんだよ」婦人を庇う口ぶりだった。てっきりわたしも、陣内君は「善意を押しつけてきた婦人」に怒っているのだと思った。ところが陣内君は、「よくねえよ」とつづけてから、さらにこう言った。
「何で、おまえだけなんだよ!」
「え」はじめは冗談を言っているのかと思った。
「何でって」永瀬も口ごもった。
「何で、おまえがもらえて、俺がもらえないんだよ」
「たぶん、僕が盲導犬を連れているから、じゃないかな。目も見えないし」
「は?」陣内君が唖然とした顔になった。心底、訝しそうだった。「そんなの、関係ねえだろ」
「え」とわたしはもう一度間の抜けた声を出してしまった。
「関係ないっつの。ずるいじゃねえか」と喚いた。
わたしは、その時の陣内君が発した、「関係ない」の響きが、とても心地よかったのを今でも憶えている。永瀬も顔をほころばせていた。
その後、陣内は、どうしておまえだけ特別扱いなんだ?そのおばさんどこに行ったんだ?と、自分も施しを受けようと必死でおばさんを探しはじめて、それを見て「永瀬」と「わたし」は必死で笑いをこらえる、というシーンに続く。
そうして後々にこの日のことを思い出した「永瀬」と「わたし」はこんな会話をかわすのだ。
「あの時の陣内は、本当に、普通だったなあ」と永瀬がしみじみと言ったことがある。わたしも同意見だった。あれほど「普通」に振舞うことなんて、普通はできない。
そう。普通はできない。
私にもできない。おそらく。きっと。
そもそも「普通」に振舞っていいのかどうかを、私はわからない。
私の実家には、代々、時折精神障害を持って生まれてくる子がときどきいて、いちばん近い存在が父の祖父だ。
そもそも私の母が、私の実家では初めての「赤の他人」だったという、ちょっと恐ろしい家なのである。
曾祖父には、私が生まれてくるころにはとっくに亡くなっているから、私は会ったことがない。
父からの思い出話や写真で知るだけだ。
ものすごく背が大きくて、一日中ぼーっと外に立っていたらしい。
だからだろうか、父は精神障害や身体障害を持つ人に、とても自然にふるまっている。
ものすごく自然に手を差し伸べたり、離したりできる。
高校のときの友だちの娘さんも、障害を持って生まれてきた。
年賀状には、毎年その子のにこにことした写真がうつっている。
うまれた年には、鼻から出た細いチューブが隠しようもなく写っていたし、年々成長をしてくその子の写真は、明らかに同世代の友人たちの子どもたちとは違う。
私などは、年賀状をもらうたびに、すこしどきどきしてしまうのだが、
毎年年賀状に写真をえらぶ友人は、きっといろいろなことを乗り越えつつも、「普通」になっていっているのだろうと思う。
たまたま私の弟が、その娘さんの主治医だった時期があり、したがって友人のことも知ることになったのだが。
そんなようなことを、弟もいっていた。
私もそういうふうに…父とか、友だちのように、
いつかなれるんだろうか。
それが正解かどうかはわからないけれども。
それでも。なれたらいいなと思う。
そう思ってしまう時点で、なんだかダメだなーって私って。と思ってもしまうのだが。
そんなようなことなどを
「チルドレン」を読みながら思ったりもした。