恋人とふたりきりになって、
あらためてお礼をいう。

ありがとう、おかげで勇気づけられたよ。

そうして私はまたしばらく眠る。
どんなに眠っても眠っても。起きたら隣には恋人がいて、
いつものように話しかけてきたり、へんな節のうたをうたったりしていて。
だからそのたびに私はまた安心して眠ることができる。
なんてしあわせなんだろう。

夕方、友だちがお見舞いにきてくれる。
いろいろなひとがお見舞いを申し出てくれていたのだけれども、
入院期間がとても短いのに悪いから、とお断りをさせてもらっていた。
(長かったらもちろん友だちみんなにきてもらうところなんだけど)

でもその友だちからお見舞いは?というメールをもらったときだけは、
なぜかとても素直に、わーじゃあきてくれる?というような返事をしていて、
それは自分でも不思議だった。
当日になって、手術の時間が変わったりして迷惑をかけてしまったのだけれども。
それにこんな短い入院に、忙しい彼女にきてもらうのは申し訳ないことなのだけれども。

でも彼女が、病室に顔を出してくれたときに、
その理由がわかった気がした。

彼女はオレンジ色を基調にした花束を持ってきてくれたのだけれども。
その花束はまさに、手術後の私が「いま」「ほしいな」と感じるような種類のもので、
そうしてその花束は、私がほしいものを体現していると同時に、私が彼女に感じる印象そのものだったからだ。

今日はオレンジって感じがしたの、と彼女はひとのこころを明るくするいつもの笑顔でいっていて、
あーそれそれ!と私はすっかりと嬉しくなった。

恋人と友だちは初対面なので(それぞれにそれぞれのことはよく話していたのだけれど)、それぞれに紹介して、
みんなで母が持ってきたイチゴを食べたりしながらひとしきり話をする。

それにしても。
今回のことをとおしてとてもよく思うのは。
みんなそれぞれに「役割」のようなものがあるんだなあということだ。
そうしてその「役割」を、ひとはみなものすごくきちんとこなしている。
らしさ、とか個性、とかいうものと、近いかもしれない。

たとえば「ごくしたしいオンナトモダチ」に、私は何人かの名前をあげられる。
その友だちに序列はなくて、でも、たとえば今回の「私の入院」という出来事をとおしたふるまいは、根底にあるものは共通しているけれども、それぞれ違う。

コトがおこったとわかった瞬間に、いのいちばんに電話をくれたM。
そうっとしみいるようなメールをくれたAちゃん。
ランチでもいこうよと誘ってくれたN。
お見舞いにきてくれたO。

当然だけれども。
メールのほうがいいとか。お見舞いにきてくれるほうがいいとか。
そういう問題ではまったくない。

ただそれらは、不思議と、私がその友だちたちに、
そうしてほしいなと思った内容だったりするのだ。
もちろん、Aちゃんからメールがほしいなあとか、Oにお見舞いにきてほしいなあとか、
明確に定義づけているわけではない。

だけれども。
なんだかそんなふうなのだ。
そんなふうというのは、無意識的に求めているものと、結果が同じだということ。
ほんとうに不思議なんだけれども。
でももしかしたら。あまり不思議なことではないのかもしれない。とも思う。


お見舞いの花

友だちがくれた花束。
オレンジのガーベラがきれい。