新しく住んでいる街でいっとう気に入っていることは。
新鮮な素材を安く買えるスーパーやお店があるからでも。
感じのいい喫茶店が何軒もあるからでも。
銭湯がたくさんあるからでも。なくて。
(もちろんそれらもとても魅力的なことなのだけれども)

家々に季節の花が咲いていること。

庭のある家の生垣も。
マンションのベランダも。
たくさんの花で満ち満ちている。

夜。家への帰り道。
朝。まだ清冽な空気のなか。
濃密な、あるいはさわやかな花々のにおいが
遠くからも伝わってくる。

ちょうど駅と家とのあいだの道々には
はごろもジャスミンの大きな木がある家が何軒もあって。
ふんわりとよい香りが10メートル以上も先からただよってくる。

ジャスミンというのは、芳香剤にしてしまうととてもチープな香りになるのだが
ほんとうのジャスミンはあの香りと全然違うのだ。
もっとふんわりとまるくて甘い。
白い小ぶりな花にとても似合う香り。

もうずうっと前に、会社の先輩の家に遊びにいったことがある。
当時同じグループにいた数名の同僚と一緒に訪れた先輩の家は、
三軒茶屋にあるアパートだった。
アジアンテイストの家具でシックにまとめた、男の人の一人暮らしにしてはおしゃれな部屋だったように思う。

そうして深い焦げ茶色のシックなローテーブルには、
はごろもジャスミンが活けられていた。

ああ、ジャスミン。いい香りですね。といったら、
そこの家からちょっとね、拝借。と先輩はわらった。

そう、先輩の住む家のすぐ近くには、やはり大きなジャスミンの木があって
とてもよい香りをはなっていたのだった。

そのときのことを思い出し
私も「ちょっと拝借」しようかしらと
横目でちらちらとジャスミンを眺めながら通る。
そうっとジャスミンにさわってみる。
だけれども。
ほんのひとふさのジャスミンを折ることだってできないのだ。
ああ私はどうしたって。花泥棒にはなれそうもない。

jasmin

生垣のジャスミン。