裏庭の花水木が満開になった。
薄紅色の花びらが、そらにとどけよと手をひろげる。
どんなに冷たい雨は降っていても、春。
たとえ冬のはじまりのように寒くても。

あるひとの日記から。
私が知っているひとで、とても素敵だなあと思っていたひとの、
「その瞬間」が近いと知ることになった。
そのひととお会いしたのは10回に満たないのだけれど。
強烈な印象を私に残し。私のなかのなにか変えた。
ひとに接するときのものごし。ことばの使いかた。
なによりも。それを支える心根。
そんなようなこと。

もしかしたら全然違うだれかの話かもしれない。
でもきっと重要なのは、それがだれであるかということではないのだ。

ただ。もしかしたら、のために。
祈ろうと思った。でもうまく祈れない。
そのひとのあたたかい笑顔を。また見られないと思うと口惜しい。
そんなふうに思う私は。傲慢なんだろうか?

このごろよく思うのは。
この世の中でだれにでも平等なもの、
それは生きることではなく
だれにでも必ず死が訪れるというその唯一点のように思う。
(前段、日記を書かれたというのかたもよくおっしゃっている)

ただその唯一点を。
受容できるかどうかは別問題だ。
私はこれまで経験したいくつかのことから。
だれのあたまのうえにも死は平等にあることを知っている。
そして突然その死がおりてくることも。
それを強烈に実感したあるときから、私は「その瞬間」を意識して生きるようになった。
諦念とはちがう。でも死ぬのだ。私でも誰でも。

その日記を書いたひとが、私がその日記を読んだことを知り。
あなたはこころ穏やかに過ごしてくださいね、という電話をもらう。
そのこころづかいに感謝する。
大丈夫ですよ。穏やかに過ごしています。

ただやっぱり。
好きだなあと思うそのひとの。「その瞬間」は、かなしい。