少し前のR25に、比嘉栄昇さん(BIGINのボーカルとして有名)のインタビューが載っていて、
その内容が結構共感というか、ここのところ少しずつおかしいなあと思いためていた部分をとてもクリアにしてくれていたので、書いておこうと思う。
---以下、R25より引用---
「なぜみなさんがベストアルバムを待つのだろうか、と(笑)。それと、インターネットで1曲ずつダウンロードするということ。バンドの一部しか伝えられないんですねー。それは結果としてライブにつながらない」
どうしても、リスナーは自分で設定した“ビギンらしさ”を求めることになる。「恋しくて」とか「島人ぬ宝」とか、やっぱり「涙そうそう」だとか。
(略)
比嘉栄昇は1968年生まれである。中高生のころは、音楽といえばダウンロードどころかCDですらなく…「レコード。何が一番よかったかっていうと、早送りとかスキップという発想がなかったことだったんです。針を落としたら、音楽が流れてるあいだ、結界が張られたようにその場でじっと聴いている…A面が終わって盤をひっくり返すときの間…あの感じを伝えたい。レコードのような感覚のCDを作ろうという話はしてましたね」。
---以上、R25より引用---
私はどうも昨今の、i-pod的思想に馴染めず、
それは自分が単に旧式の人間で、社会の新しい枠組みについていけていないだけなのかと。
もう「あちら側」の人間になってしまったのかと、思わないわけでもない。
事実、そういう部分も多分にしてあるだろう。
ただいえることは。
旧いものがすべていいとは思わない。
新しいものにもよさはもちろんある。
つまるところ、いいものはいい、のだ。ということ。
私がどうにも馴染めないのは、好きな曲「だけ」、という部分なんだと思う。
私はどちらかというとCD世代なので(レコード盤も持っているし、中学校のころはまだカセットテープが主流だったが)、好きなアーティストのアルバムをひととおり聞くと、苦手な曲はスキップしてしまうのはほぼ当たり前である。
でも前提としてあるのは、好きなのも嫌いなのも「全部」含めてのものだったのだ。
比嘉さんは楽曲提供者だから「ライブにつながらない」という表現を使っているけれども。
これは結局は、音楽のみならず、すべての行動様式に当てはまりうることのような気がしていて(あるいはそういう行動様式が定着する予想があったからこそi-podがうまれたのかも知れないけれども)、それがi-pod的なものに対して鼻持ちならなさを感じてしまう所以なのだと、比嘉さんのインタビューをとおして実感したし、代弁してもらったような気にすらなった。
好きなものも嫌いなものもあって当たり前だ。
でも大事なことは、ぜんぶを知ることなのだと思う。
ぜんぶを知った上で取捨選択する、そのことと。
ぜんぶを知らないでいることとは全然違う。
ちなみにこのインタビューには、なぜBIGINが最初に世に出る曲に「恋しくて」という、琉球音楽ではない“完璧に日本語のバラード”を選んだのか、という理由なども載っていて、私にはそれもとても納得感が高く、またその「恋しくて」によってBIGINの存在を知り、その後、同時代を生きるアーティストとして彼らの音楽を聴き続けてきたものとして、やっぱりBIGINって、比嘉さんっていいなあと思えるのだった。
とはいえやっぱり「島人ぬ宝」は大好きで、「島人ぬ宝」ばかり何度も聴いちゃったりするんですけれどね。
こちらはインタビュー全文です↓
http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB000410/tpl/interview01_11/bkn/20070222/id/200702220201
その内容が結構共感というか、ここのところ少しずつおかしいなあと思いためていた部分をとてもクリアにしてくれていたので、書いておこうと思う。
---以下、R25より引用---
「なぜみなさんがベストアルバムを待つのだろうか、と(笑)。それと、インターネットで1曲ずつダウンロードするということ。バンドの一部しか伝えられないんですねー。それは結果としてライブにつながらない」
どうしても、リスナーは自分で設定した“ビギンらしさ”を求めることになる。「恋しくて」とか「島人ぬ宝」とか、やっぱり「涙そうそう」だとか。
(略)
比嘉栄昇は1968年生まれである。中高生のころは、音楽といえばダウンロードどころかCDですらなく…「レコード。何が一番よかったかっていうと、早送りとかスキップという発想がなかったことだったんです。針を落としたら、音楽が流れてるあいだ、結界が張られたようにその場でじっと聴いている…A面が終わって盤をひっくり返すときの間…あの感じを伝えたい。レコードのような感覚のCDを作ろうという話はしてましたね」。
---以上、R25より引用---
私はどうも昨今の、i-pod的思想に馴染めず、
それは自分が単に旧式の人間で、社会の新しい枠組みについていけていないだけなのかと。
もう「あちら側」の人間になってしまったのかと、思わないわけでもない。
事実、そういう部分も多分にしてあるだろう。
ただいえることは。
旧いものがすべていいとは思わない。
新しいものにもよさはもちろんある。
つまるところ、いいものはいい、のだ。ということ。
私がどうにも馴染めないのは、好きな曲「だけ」、という部分なんだと思う。
私はどちらかというとCD世代なので(レコード盤も持っているし、中学校のころはまだカセットテープが主流だったが)、好きなアーティストのアルバムをひととおり聞くと、苦手な曲はスキップしてしまうのはほぼ当たり前である。
でも前提としてあるのは、好きなのも嫌いなのも「全部」含めてのものだったのだ。
比嘉さんは楽曲提供者だから「ライブにつながらない」という表現を使っているけれども。
これは結局は、音楽のみならず、すべての行動様式に当てはまりうることのような気がしていて(あるいはそういう行動様式が定着する予想があったからこそi-podがうまれたのかも知れないけれども)、それがi-pod的なものに対して鼻持ちならなさを感じてしまう所以なのだと、比嘉さんのインタビューをとおして実感したし、代弁してもらったような気にすらなった。
好きなものも嫌いなものもあって当たり前だ。
でも大事なことは、ぜんぶを知ることなのだと思う。
ぜんぶを知った上で取捨選択する、そのことと。
ぜんぶを知らないでいることとは全然違う。
ちなみにこのインタビューには、なぜBIGINが最初に世に出る曲に「恋しくて」という、琉球音楽ではない“完璧に日本語のバラード”を選んだのか、という理由なども載っていて、私にはそれもとても納得感が高く、またその「恋しくて」によってBIGINの存在を知り、その後、同時代を生きるアーティストとして彼らの音楽を聴き続けてきたものとして、やっぱりBIGINって、比嘉さんっていいなあと思えるのだった。
とはいえやっぱり「島人ぬ宝」は大好きで、「島人ぬ宝」ばかり何度も聴いちゃったりするんですけれどね。
こちらはインタビュー全文です↓
http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB000410/tpl/interview01_11/bkn/20070222/id/200702220201