もうすぐ今年の秋刀魚漁が終わるらしい。
秋刀魚が漁れすぎてしまったため、だそうだ。

新秋刀魚ももうすぐ食べ収め。
鮭の塩焼きの次に秋刀魚の塩焼きが好きな私としてはさびしい限りである。

子どもの頃、秋刀魚は一匹食べさせてもらったためしがない。
子どもは胃袋が小さいから、ではなく。経済的な理由に基づいていたはずだ。
その証拠に、多くの場合に大人である両親も半切れしか食べていなかったからだ。

生の秋刀魚たちを、頭側としっぽ側の半分に切ってグリルに入れる。
そうしてほどよく焼かれた秋刀魚を人数分の皿に盛る。
私は料理を手伝っていた特権で、常に自分の好きなほう側…ちなみにしっぽ側であるが…を自分の椅子の前に置くことができた。
なぜなら頭側の多くは黒くて苦いはらわたに占拠されており、
私はどうにもこのはらわたが苦手なのである。

私の母は逆にはらわたが大好きで。
はらわたが食べられれば身はいらないから、と、自分のぶんの切り身は父や子どもたちに分け、子どもたちが苦い、まずいといっては残すはらわたの部分を回収して食べていた。

子どものころは単純に、お母さんははらわたが好きなんだ、変わっているなあくらいにしか思っていなかったけれど。
母は本当にはらわたが好きだったのだろうか。

もちろん嫌いではなかったのだと思うのだけれど、
それでも身を食べなくていいほど好きだったとは思えない。
むしろ父や子どもたちに身を食べさせたいという気持ちのほうが強かったのではあるまいか。

そんなことにはたと気がついたのは、
大人になってからのことだ。
かえすがえすも、ひとの親というものは本当にすごいものだと思う。