私はウィーン郊外にあるハイリンゲンシュタットという場所にいた。
トラムのはずれのほうの駅で、ここまで来ると観光客も標識もまばらだ。
これまでのように簡単に見つかると思っていた目的地が、
そんなわけでまったく見つからなかった。
何度もひとに聞き、そうしてようやく目的地に…ベートーヴェンに縁のある3つの家…遺書の家、メイヤーの家、夏の家の周辺に辿りついたのは、そろそろお昼に近い時間帯だった。
目に付いた最初の〝家〟に入った。
そこは〝遺書の家〟と呼ばれる、ちいさな博物館を併設したちいさな家だった。
受付のおばあさんはお昼ご飯を食べに行くのだろう、片づけをはじめていたけれど、私を見るとなかに招きいれてくれた。
おばあさんのお昼休みを短くしてもいけないので、
急ぎ足でベートーヴェンの縁の品々、ピアノや直筆の楽譜や手紙などを見た。
このピアノをベートーヴェンが弾いていたのかと思うとどきどきした。
プラハのベルトラムカ山荘でモーツァルトのピアノを見たときよりも緊張した。
静かな場所だった。
小さなおばあさん以外は誰もいなかった。
ときどき外で鳥が鳴いていた。風の音がした。
展示室を見終わり、木漏れ日のさす中庭におりたそのときのことだった。
その小さな中庭に鐘の音が降ってきたのだ。
なんと形容したらいいのだろう。
それは本当に突然、音が空から舞い降りてくるみたいだった。
その町の一角には小さな教会があって。
きっとあそこの鐘の音なのだろう。
12時を告げるその鐘は何度も何度も鳴り響いた。
あまりに美しい音色だった。時間がとまったみたいな気がした。
その美しさは、どんな豪奢な、あるいは有名な教会の音色もきっとかなわないだろう。
耳が聴こえなくなったベートーヴェンの家で、
私はこんなにも音を享受していた。
あの突然降り注いだ音の美しさは
いまも耳のなかに残っている。
ふたたび静かになった中庭のベンチで。
私は大切なひとに2通目の手紙を書いた。
あなたのことをよく思い出すと書いたら、少し涙が出た。
遺書の家
メイヤーの家
ベートーヴェンの3つの家の近くの街並み