土曜日に友だち4人でランチをした。
みんなそれぞれ忙しい時期が続いていたので、4人全員で集まるのは数ヶ月ぶりだ。
ここのところあまりひとと会いたくない気分なのだけれど、親しい友だちはやっぱり別。会うと楽しいし元気になる。
さて女の子が集まるとどうしたって最後はレンアイの話になる。それは私たちも同じこと。
いま私たちにはみんなそれぞれ恋人や夫がいるのだけれど。
素敵なパートナーができた友だちに、恋人はどんなひと?とたずねたら。
うーんそれが、父親に似ているんだよね。と教えてくれた。
期せずして私たちはいっせいに叫んだ。
うわ、きたー!
レンアイにおいて、選んだひとが父親に似ているいうのは決定的なことだ。
なにが決定的かというと、これでよし。というところ。
父親に似ているから好きになったということではなく、気がついたら似ているひとだったというのが味噌。
そのひとを象徴するなにか・・・雰囲気だったり容姿だったり性格のいちぶぶんだったり、それはいろいろなのだけれど・・・が、結果的に父親に似ているというのは、このひとでいいのだという絶対的な本能的な安心感を運んでくる。
場合によっては少々の不快感も含むのだけれど、それはもう、このひとはまったくしょうがないわね、というような、本当にアタマにくるんだけれどでも結局はそれを含めて愛すべきひとなのよね的ななにかに通じる。
オトコのひとも母親の面影を探すとはよくいうけれど。それと少し違う気がするし同じような気もする。
もちろんそういう人生の機微みたいなものに気づいたのは、ずいぶんとおとなになってからのことだ。
夫がいる友だちの夫も、友だちの父親に似ている。
だから友だちのお母さんは少々複雑な思いで(いったいなんでまたこんなお父さんに似ているひと選んだのかしら)見ているらしい。
そしてお父さんに似ているからこそ結局選んだのだということを、お母さんも体験的に知っているのだそうだ。
もうひとりの友だちがずっと長く一緒にいる恋人も、父親に似ている部分があるという。
私が前に付き合っていた恋人も、雰囲気が父親にほんとうによく似ていた。
そのひとからプロポーズされた夜、報告がてら父親に電話をし、だからつい言ってしまった。
お父さんに似てるひとなのよ。
本当に余計なひとことだ。
父親は後々、いままで生きてきたなかであれがいちばん嬉しい言葉だったと、母にいったそうだ。
いろいろあって結局そのひととは結婚をしなかった。
結婚しなかった事実と同じくらいに、いやいまではそれ以上に、普段あまり感情をおもてに出さない父のその言葉の重みを感じている。
という私の体験談に基づいて、こういうキメゼリフは最後の最後まで言っちゃいけないよね。
と友だちといいあった。
そう。だからもう二度といわない。その日まで絶対にいわない。
どんなにお父さんに似ていても。