日曜日のお昼ごろ。
なにげなくつけたテレビで。
尼崎の列車脱線事故のドキュメンタリーをやっていて。
たぶん私は番組全体の最後のほうを見たのだと思うのだけれど。
事故の結果、両足のほとんどを切断された、まだ20歳の学生の。
その前。そのとき。その後。そしていま。
が。連綿とつづられていた。


私はどうしても。そのテレビの前から離れられない。


生き残った。
その運の強さを。幸運だと思えなかったこと。
ない足が痛む幻肢症で。毎晩睡眠薬を飲まないと眠れないこと。
〝バリバリの営業マン〟なんて無理だから。大学院に行って経済学の研究者になろうと思っていること。
照れくさくて家族には〝ありがとう〟をいえないこと。でも自分が自立することでその気持ちを受け取ってほしいこと。
友だちのこと。家族のこと。リハビリのこと。看護師との出会いのこと。
絶望。困惑。夢。希望。


本人の前では絶対に泣かないことにしているんです。と目を赤くする母。
あんた自分の子供だったらそんなふうにいえますか?と番組スタッフにいう父。


彼はまだハタチで。
だから私は彼のなかの弱さも。子供っぽさも。見ることができる。
でも私にはちゃんと両足があって。元気で。少なくとも予見できる範囲では元気で。
私の両足がもし。明日からなくなったら?
たとえば足じゃなくて。手とか。耳とか。目とか。あるいはなにかが。
いまと違う。それも一生。いまと違う。ことになったら?
私は彼のようにきちんと。日々と向き合うことができるだろうか。


わからない。
それはたぶん。そのときがくるまでは。


思うのだけれど。
こうしていま生きていたり。元気でいたり。笑っていたりするのは。
偶然の積み重ねでしかなくて。
テレビの彼も言っていたのだけれど。
生かされている。それ以外のなにものでもなくて。
だから毎日を大切に生きて。
それは肩肘をはってガンバロウということではなく。
自分を大切に。大切なひとを大切に。
感謝のこころと笑っている時間をより長く持ち。
そうして願わくば。
ひとりひとりが持っているはずの使命をまっとうすること。
それが使命だと気づく気づかないにかかわらず。


そんなふうにして日々をすごしていく。
いかないとなあと。思うのだ。