まだ体調が優れないのでお昼近くに出社する。
いつもは通勤で込み合う電車も。今日は少し空いている。
新橋駅のホームに降り立つと。
プラド美術館展の大きな看板がついているベンチを囲むようにして、主婦然とした女性のひとごみができている。
新橋駅といえばサラリーマン。
だからその女性ばかりの集団はちょっと違和感がある。
もう美術展はじまったんだ。これからみんなで見に行くのかな。(いいな)。
そんなふうに思いながら。
そのひとごみをちょっとのぞいて驚いた。
ベンチには小学生くらいの子どもたちが7~8人座っている。
そのまわりを囲んで立っているのは、彼ら彼女らの、だからきっとお母さんたち。
プラド美術館に行くのではなく。
きっと汐留のテレビ局のイベントや。ゆりかもめに乗ってお台場にでも行くのだろう。
しばらく前からけっこう気になっていることがある。
どうでもいいようなことなのだけれど。
最近の子どもたちは。どうして席に座るのだろう。
電車や。バスや。駅のホームや。遊園地や。
そういったところで空席を見つけるのは。
いつもお祖父ちゃんやお祖母ちゃんやお父さんやお母さん。
そうして見つけた席に。ほらほら早く座りなさい。
といって子どもたちを座らせて。自分たちは立っている。
子どもたちは当たり前のように座る。年配者や親を立たせたままで目的地まで行く。
どうでもいいようなことなのだけれど。でも少しずつ違和感を憶える。
たとえば遊びつかれた子どもを座らせたいと思う気持ちは。
私にだってわかるけれど。
たとえば煩いから座っていなさい。というやりとりも。想像できるけれども。
でもそれって、いつもすること?
私が育ったのは。子どもを立たせる家だった。
席を譲るのは子どもの仕事だった。
子どもなんだから立っていなさい。あちらのひとに座りませんか?って聞いてきなさい。
そう明確にいわれたこともあるし、いわれなかったこともある。
でも子どもは本質的には元気なものだ。
だから立っていることは苦ではなかったし。どちらかというと楽しかったような気配が記憶として残っている。
もちろんどうしようもなくぐったりと疲れたときには。座らせてもらった記憶もあるけれど。
それが私の家の特異なことだったのかは。定かではない。
子どものころはいまよりもずっと自分のことしか見えていなかったから。
よそのうちもそうだったのか。電車のなか全般がそうだったのか。
そういうことはいまはもうわからない。
でもどうしても。
違和感を憶えてしまうのだ。
今日の昼間に見たような景色には。いつも。