なにがひとりでできてなにができないか。
それは人によっていろいろな基準があるだろう。またはその時の気分によって。
ひとりを前提とした場所かそうでないか、ということ以上に。
例えばある友人は、ひとりで外で食事を食べるより、家で食べる方がずっとましだと言う。
外にいると、ひとりで食事をしている自分を強烈に意識していまうからと。
別の友人は、ひとりでも一見のバーに行ける。私にはそれはまだちょっと無理。
昨晩KRくんがしたひとり鮨というのも、私はきっとできないと思う。
もちろん彼も好きこのんでひとりで行ったわけではない。よほどお鮨が食べたかったんだろうと思う。
しかし鮨屋に関しては、ひとりで行きつけの鮨屋にいる年配の男性、という図をしばしば目にするから(サザエさんちの波平さんも行っていたはずだ)、行く・行かないは年齢の問題なのかもしれない。
一方で。
ひとりディズニーランドなんて一生、絶対にあり得ない。富士急だって嫌だ。
横浜のコスモクロックにひとり、なんて図は。想像するだけで罰ゲームだ。
そういえばjazzやclassicは一人で聞きに行っても、ミスチルには一人で行かない。デイゲームの野球場は一人で行くけれど、サッカースタジアムは一人は嫌。
加えて。
私がどうしても苦手なのは、ひとりで家で食べる食事だ。
簡単なものをささっとつくる分にはいいけれど。
ひとりできちんとしたものをつくり、食べること。
それが、私にはどうしてもできない。
ひとりではない時の気分をどうしても思い出してしまうから。
それはおそらく。
私にとって食事をつくり、食べるという行為の根底にあるものが。
一緒にいるひとのためだから、なのだと思う。自分のためではなく。
これは子どもの頃の食習慣に根ざした考え方だから、きっとこの先も変わらないだろう。
私の家族は基本的にみんな揃って食卓で食事をする習慣
があったし、
したがって食事をつくるということは、家族のための食事をつくるということだった。
だから大人になったいまも。
私にとっての食事はそういうことなのだ。
家族や恋人や友だちや。
そのとき一緒にいる大切な誰かのための、誰かと食べることを前提とした食事。
そしてそんな理屈以上に。
おいしいね、と言い合えるひとがいること。
その大切さ。その素晴らしさ。
決して当たり前でもささやかでもない、そのことの重みがわかるようになったこと。
それだけのことなのかも知れないけれど。