音楽と記憶。
この2つは緊密に結びついている。
誰にでもひとつやふたつ覚えがあるだろう。
休日のカフェのBGMによって。
テレビや映画で突然流れる音楽によって。
怒涛のように、あるいはふんわりと。
もうすっかり忘れていたできごとや、記憶の彼方にいた人を思い出すことを。
忘れていたことも、忘れたいことも、忘れられないことも含めて。
暴力的によみがえる記憶たち。
たとえばsixpence none the richer の 〝kiss me〟という曲には、キスが大好きだった昔の恋人が重なる。
赤いワーゲンであちこち出かけていた頃のヘビーチューン。
たとえばとても苦しい恋をしていた時、そのひとが教えてくれたfairground attraction の the first of a million kisses。
elliot erwittのジャケットが素敵なこのアルバムの〝calling〟は、いま聴いても涙が出るくらい切なくて重い。あの苦しい日々と感情。
もちろんすべてが恋愛に結びついているわけではなく、
acid house kingsにはある一軒のカフェ
とコーヒーを、
サザンのいくつかの曲にはサーフトリップで見た大きな波と朝日の輝きを、
bill evansやjos van beestには、昔住んでいた部屋で過ごしたたくさんの夜を思い出す。
carla bruniの quelqu' un m'a ditというアルバムに〝 la noyee〟という曲がある。
溺れる、という言葉にぴったりの、あまやかな音とゆったりとしたやさしい調べ。
この曲を聴くと、私はいつも恋人を思う。
あたたかで静かな日々を過ごす、恋人と私のこと。
旅から帰ってきた恋人と、連休の終わりの日々を過ごした。
新しくみつけた隣町の銭湯に昼間から行ったり、その帰りにずっと気になっていた韓国料理を食べたり、初めて見つけた素敵なバーに寄ったりした。
鎌倉への自転車旅行ですっかり日焼けした恋人。
キティちゃんが緑色のだるまに扮したお守りをお土産にくれた恋人。
キティちゃん、確か好きやんな。かわいいやろこれ、なんて言いながら。
精悍で男性的な恋人がキティちゃんを物色しているところなんて、全く想像がつかない。
でも私の携帯には、そのかわいらしいキティちゃんの、お守りストラップが付いている。
そしていま。私はcarla bruniを聴きながら恋人からの電話を待っている。
明日からの仕事に備え、業務の棚卸をしに会社に行った恋人。
何回目かの〝 la noyee〟を聴きながら
早く電話がくるようにと心のすべてで祈っている。