そのお店に行ったのは、あと少しで夏に手が届く日のこと。

葉山港に面したレストラン、ラ・マーレ・ド・茶屋。


ラ・マーレ・ド・茶屋は、特別なお店だ。


葉山という言葉のもつ響き。
ヨットハーバーが目の前にある一軒家のレストラン。

たとえばまだ大人になる少し前だったら。
いつかこんなお店に来てみたいと想像するだろう。
特別な時に、大切な誰かと一緒に。少しだけおしゃれをして。


あるいはもう大人になっているとしたら。
昔はよく来てたんだよね、なんて少しおおげさに言いたくなるかも知れない。
たとえば数回しか訪れたことがなくても。


ラ・マーレ・ド・茶屋は、そんなふうに特別なお店だ。
街に一軒だけ許される、ランドマーク・レストラン。


その頃、私はちょっとしたことから右足に怪我をして、
こともあろうに松葉杖をついていた。
誰もが少し特別な気分を持ち寄るそのお店に
あまりにも不似合いな松葉杖。


そしてこともあろうに。
その前日の昼間にも、私はラ・マーレ・ド・茶屋でランチをしていた。
別のひとと一緒に。松葉杖をつきながら。


その夜、そのお店に連れてきてくださった方は、
ボクが若い頃によく行った素敵なお店、と、わざわざ忙しい日程を割いて案内をしてくださっていて。
だからこそ、ラ・マーレ・ド・茶屋への道を辿っていることがわかった時も、
ええ知ってますそのお店、だって昨日も来てましたから、とはちょっと言い出せなかった。


お店のドアを空けると、昨日とまったく同じお店の方が
笑顔で迎えてくれる。
また来てくださいましたね、なんていう余計なことを
お願いだから言わないで下さいと、瞬時、私は祈る。
そしてもちろんそんなこともなく、
私がとても気に入ったテラスに近い奥まった席に案内してくださる。


お怪我ですか?お足元、お気をつけくださいね。
そして私だけにわかるように、こっそりと片目をつむったのだ。映画みたいに。


ラ・マーレ・ド・茶屋は、そんなふうにして
私にとっても特別なお店になった。


夏の夕暮れ。
テラスに近い席に座り、私は静かに目を閉じる。
にぎわうお店の喧騒、jazzの音色の向こうに
海の香りと寄せる波音が聞こえる。


もう数年前の。
今よりもずっと、毎日が無謀だった頃の話。


cyaya

#ラ・マーレ・ド・茶屋[葉山]
写真は同HPより。

ここで言い訳がましく。二人ともお互いに単なる親しい、そして尊敬しあえる友人だったことを白状しておきましょう。
一緒に食事をするのが楽しくなる、素敵な男性ではあったけれども。