最近、ときどきマンガ喫茶に行っている。

そんなところにいる自分なんて想像したこともなかったし、むしろそんな場所に出入りする人たちに好印象は持っていなかった。


けれど。

行ってみると、相当いいものだ。

やわらかいソファもあるし、飲み物はいくらでも飲んでいいし、当たり前だけどマンガは読み放題。

子供の頃のマンガ禁止令以来、マンガを買う習慣のない、けれどもマンガ好きの私には実に楽しい場所なのだ。


たくさんマンガがありすぎてとらえどころがないので、知っているひとのものを読むことにしている。

最近、読んでいるのは、柴門ふみさんの「家族の食卓」というもの。

壊れそうな家族、それを構成する夫婦や夫婦と子供たちをテーマに、その再生や別れを、あたたかく、そして希望に満ちた視線で描いている。とても素敵な作品。

どの章にも心に響く何かがある。


最終巻の冒頭に、柴門さんのこんな言葉があった。


人生において、家族と過ごす時間は

どれくらいあるのだろうか。

睡眠時間はおろか、通勤時間、食事の時間以下の人もいるかもしれない。

だからこそ、会えない時間に、家族を想う。


家族と過ごす時間。

私は19歳の春から10年以上、ずっと一人暮らしをしている。

両親は遠く故郷に住み、兄弟たちはみな別々の場所にいる。

仲は良い方だろう、多分。

だけれども全員で食卓を囲む日は、もう殆どない。きっとこの先も。

家族の食卓は、だから私にとって、とても懐かしい響きを持つ言葉なのだ。

新しい家族をいつか持つまでは、きっと。


私の実家の食卓は、ト音記号の外周のような形をしていた。

母が家具屋さんに特別につくってもらったというダイニングテーブル。

家族全員が、全員の顔を横からではなく正面から見えるようにと設計されていたその不思議なテーブルは、私と兄弟たちとそして両親との家族の絆を結んできた。

そこで食べる料理と、交わされる会話のなかで。

壊れそうになったことも多分あるけれど、いつも再生を選んできた。家族と、そして食卓と。


先日、大学の先輩が奥さんと結婚しようと思った理由として、こんな言葉を使っていた。


めちゃくちゃいっぱいケンカもするけど。なんだこいつ、すっげーむかつくとか思うけど。

それでも絶対に嫌いになれない、別れられない。と思ったんだよね。


いつか私も新しい家族を持つ日がくるだろう。

誰と、どんな食卓をつくっていくのだろうか。

時に壊れそうになっても、再生を選んでいけるだろうか。

喧嘩をしても一生嫌いになれない、別れられない誰かと。


fmark


illustration by 葫葫葫