ガラス工芸を習っていたことがある。もう数年前の話。
しがないサラリーマンなんかより手に職をと、ある日突然思い立ち、どうせなら好きなことで身を立てようと定めたのだ。自分が不器用だということをすっかり忘れて。そして当然ながら身を立てられるはずもなく、今もサラリーマンを続けているのだけれど。

その頃通っていたのは、いわゆる吹きガラスではなく、パート・ド・ヴェールという練りガラスの教室。パート・ド・ヴェールとは古代メソポタミア時代のガラス製法で、アールヌーヴォー時代に価値を見直されるまで廃れていた、幻の技法といわれているもの。

ものをつくるのはとても楽しい。
できあがる作品は見るも無残なものだったけれど、それでもとても。
でもそれにも増して楽しみだったのは、ガラス教室の階下にあるカフェと、そこで過ごす時間。

regaloというそのカフェは、私が理想とするカフェのひとつだった。
だった、というのは、残念ながら現在ではカフェ営業を辞めているから。

カフェに求めるもの。

それはもちろん人それぞれだけれど。
私はそこにくつろぎを求める。それもとても上質な。

たとえばくつろぎを現す形容詞として「自分の家にいるような」とはよく使うけれど、いつもと同じくつろぎなら、それこそ自分の家で十分だ。
自分の背丈にあつらえたナチュラルな空間で、自分の好みに合ったコーヒーを淹れればそれでいい。
でもあえてカフェに行くのだから、自分の家にない何かがなければならない。
私の場合、それは上質なくつろぎ。それも完璧に上質な。

regalo。

このお店の前には、ハーブやシンプルな花が植えられている。
季節のうつりかわりを愛でながら数段の階段を登りドアを開けると、そこはほの暗い空間。
夏場には床に敷かれた砂が涼感を伝え、
冬場には火の入った暖炉があたたかく迎えてくれる。
しんと静まった空間に、薪のはぜる音が心地よく響く。

季節を感じて暮らすことを、私はとても大切にしている。
けれども。初夏にあじさいを、夏にひまわりを飾っても、床に砂を敷くことはない。もちろん。
そんなことを日常に持ち込んだら大変だ。というかむしろやり過ぎだ。

でもそういう日常では決してできない日常の延長をさりげなく現してくれたら。
それも肩肘のはらない、くつろぎの中で。

暖炉の前にある、漆黒の厚い一枚板でできたカウンター。
ここがregaloの特等席。
ここに座って、濃く炒られた香り高いコーヒーを飲む。
どこまでも広がる静寂、そして心の開放。
お店を辞すたびにいつも、上質なくつろぎをたくさんもらっていたことに気づく。

regaloとはスペイン語で贈り物の意味だそう。
なんともこのお店にあった名前ではないか。

再開が待たれる、最高のカフェ。

#regalo[代官山 渋谷区鉢山町]
バー営業はやっています。