連休明けの一日は、穏やかに晴れている。
さわやかで、とてもいい気持ち。
ところで。
毎月メルマガを書いて送ってくれる、大学の後輩がいる。
その後輩が読んだいくつかの、あるいは一冊の本についてを、彼の性格そのままの飾りのない言葉でまとめてあるそのメルマガを、私はとても気に入っている。
月に1度の、後輩の書評。
先月の終わりに届いた最新号は、村上春樹の「海辺のカフカ」を取り上げていた。
カフカと、村上春樹にまつわる個人的な体験について。
>村上春樹を一番読み漁っていた当時、僕は神田川の近くに暮らしていて、4月になると必ず神田川の桜を見ていた。
>北海道の田舎者の僕はそれまで桜並木というもの自体を見たことが無く、神田川の両脇を覆い尽くす桜に毎年心を奪われていた。
村上春樹。
私も大好きで、学生の一時期、むさぼるように読んでいた記憶がある。
多分、村上春樹をそういうふうに読んだことがある多くの人にとって、彼はとても個人的な体験や記憶と密接になる作家であり、
そういうタイプの作品を産んでいるのではないかと思う。
難しいことはよく分からないけれど。
私は生来の貧乏性で、いまだにハードカバーの本を買うのにものすごく抵抗がある。
かといって、図書館で借りて読むのは嫌。
というのも、本は買って読め、家は借りて住め、というのが私の実家の家訓で(そのわりに田舎のため持ち家だった。田舎には賃貸住宅なんてない)、
子供の頃から悪魔の囁きのように繰り返し言われていたそれが、
ある程度お金に自由がきくいまになっても染み付いてしまっているのだろう。
そんな私の文庫待ち作家、つまり喉から手が出るくらい読みたくて、でも待ち続けている作家。
そのひとりが、村上春樹なのだ。
そんなわけで、海辺のカフカ。
文庫発売日とほぼ同日に書店に走り、翌日の仕事をものともせずに一気に読み切る。上下巻(暇?)。
学生の頃、ものすごく読んでいた村上春樹ではあるけれど、
あの頃、共感できていたのか、理解できていたのかと聞かれると、多分できていなかったと思う。
なんというのだろうか。村上春樹〝的〟なものには共感していたり、理解したつもりになっていても。
そこに書かれている本質だったりは、その頃の私からはほど遠くて、本当は想像すらもできていなかったと思うのだ。
カフカが出る少し前、なぜか唐突に、私の中で、村上春樹・ふたたび。
というブームがきていた。
一度読んだ本を二度読まない私としてはとても珍しいことに(ちなみにこれは家訓ではない)。
そして読み返した村上春樹は。
村上春樹〝的〟なものとしてではなく、すとんと胸に落ちたのだ。
国境の南、太陽の西。
ノルウェイの森。
ねじまき鳥。
風の歌を聴け。
あの頃よりも圧倒的に。濃密に。
それが、つまり、トシを取ったということなのだろうなあと。
ふいに納得もしながら。
メルマガは続く。
>ああ、10年が経ったんだなと思った。
>東京へ出て独り暮らしを始めてちょうど10年。
>大学へは人より長く通った。なりゆきだけで職に就いた。貯金は全くない。引越しは3回した。大学の同級生たちは次々と結婚していく。
私は長野の田舎から東京に出てきて12年経った。
12年。1ダース分の年月の重み。
大学はふつうに卒業して、運よくやりたい仕事に就けた。いくばくかの貯金はあって、引越しは7回した。
いいこともそうでないこともいっぱいいっぱいあった。
それでも歳月は等しく、生きている限りは頭の上を流れていく。
みんなの頭の上を。平等に。
もう1ダース先の晴れた5月に。
私は何をしているのだろう。どこで。どんな気持ちで。
そんなことをふと考える。
考えても答えが出ない、個人的で輝かしい未来のことを。
photo by カメラコゾウさん