内藤信親 内藤信敦 内藤信美  | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

AIR PAVILION MUSIC AGENCY
代表取締役社長

Royal Escort Grand Prix
名誉会長

MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥




 
内藤 信敦
内藤信敦像(村上市歴史資料館蔵)
時代江戸時代後期
生誕安永6年10月1日1777年10月31日
死没文政8年4月6日1825年5月23日
別名三左衛門
戒名綜理院整誉致格文憲
官位従五位下豊前守、従四位下紀伊守
幕府江戸幕府
越後村上藩主
氏族内藤家 (信成系)
父母父:内藤信凭 母:奥平松平忠恒の娘
正室:柳沢保光の娘、
継室:久松松平定信の娘(牧野忠精の養女)
信方信親、その他多数


また内藤 信親と言う大名がいた。

家康の実弟である初代内藤信成から数えて7代目当主である。



嘉永4年(1851)~文久2年(1862)の11年間、
信親は幕府老中職に就任。

時はペリー艦隊の来港・開国。
それに対する攘夷運動、安政の大 獄と桜田門外の変。さらに皇女和宮の降嫁。

尊王討幕運動から戊辰戦争、 そして幕府の瓦解と新政権の誕生。
この激動の幕末に幕府老中として政治 の中枢にいたのが信親だった。

江戸時代後期の大名、老中。

老中は江戸幕府に常設された最高職。
2万5000石以上の譜代大名から任用され、複数名が月番制で政務を執ったが、筆頭者(老中首座)は事実上の執政として幕政を主導していた。

内藤家の中でも比較的出世したのは、
母は寛政の改革で有名な老中松平定信の娘であること。

父の内藤信敦の嫁【信親の母】が松平定信の娘、
つまりは江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる定信の血が徳川家だからだろう。

越後国村上藩の第7代藩主。
第6代藩主・内藤信敦の三男。

基本的に内藤家以外でも、武家の家系図には
女子の名前の記載は無く、
女としか書いていないので名前が判らない。

実子の信任が早世していたため、岩村田藩内藤家から信民を養子に迎え、元治元年(1864年)に隠居して家督を譲っている。

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、明治新政府軍に抵抗した。

対応に苦慮した信民は自害している。
可哀想に。

そのため岸和田藩岡部家から信美を改めて養子に迎えている。

戦争終結後の明治元年(1868年)明治政府から罪を問われ、謹慎処分を受けている。

1868年(明治元年)北越戦争で幕府方についたため謹慎処分。

ただ、嬉しい事に当時の内藤隊の家臣から、
武勇伝の話を聞いて嬉しかった比較的近年の内藤である。

明治時代初期の日本において薩長土肥の四藩中心に行われた江戸幕府に対する倒幕運動、一連の近代化改革を指す。

明治新政府軍とサムライとして最後まで抵抗した男である。

大久保利通‎ 
木戸孝允‎ 
坂本龍馬‎ 
高杉晋作‎ 
吉田松陰‎ 

彼等は内藤家にとっては敵である。
私は個人的に木戸孝允が嫌いじゃ。

明治7年(1874年)に63歳で死去。
内藤家での中比較的に可哀想な人生である。

  信親の遺墨の一つの言葉。
「山峰染月寒」
さんぽ うつきをそめてさむし 峰々は月光に白く染 まって寒々としてい る。

文化9年12月生(1813年) ~ 明治7年没(1874年)

そう、明治維新前、
サムライとして生き、サムライとして死にたかった
武家は、辛い思いをしていたのさ。

大政奉還150年を記念した企画展
「大政奉還と土佐藩」に掲示してある。

山内容堂が江戸幕府老中内藤信親へ提出したものの、過激な内容だったために返却された海防意見書が初公開。

 徳川御三家藩主から内藤信親宛に送られた書簡も残されている

幕府中枢にいた信親との親交を 示すもの。

尾張大納言慶臧(よしつぐ)、
尾張徳川 家13代藩主(田安徳川家から養子)。
右紀伊大納言斎 彊(なりかつ)、
紀伊徳川家12代藩主(元清水徳川家5代当 主、
11代将軍徳川家斉の実子)。
左水戸宰相慶篤(よしあ つ)、
水戸徳川家10代藩主。

父は9代藩主斉昭(なりあ き)で、井伊直弼(なおすけ)と対立し安政の大獄で永 蟄居(ちっきょ)を命じられた。

その時の使者は信親が務めた。

写真、表書には「系譜 内藤豊前守」とあり、
裏書には 「寛政十一年巳未年十二月 内藤豊前守」とある。



初代信成(のぶなり)から九代信凭(のぶより)までの内藤家の系図で、
官位、官職名、生年、母、妻女、 子、没年等が記されている。

初代藩祖信成の項には、弘治3年松平元信(徳川 家康)に初めて拝謁して、
家康より元信の一字を賜り 「三左衛門信成」と号したとある。


因みに当家の直系の内藤正成は、
「内藤四郎左衛門正成」

まだまだ続く。徳川の犬🐕内藤の話。