伏見城にて、内藤家長は死んでおりますが、
三河の内藤氏は家長の祖父の代から松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣の家柄であり、
家長は徳川家康に 仕え、義兄の内藤信成から
内藤家の家督を譲られて跡を継ぎました。
武勇に優れており、弓の名手で「無双の弓手」と称えられました。
また、父同様に一向宗の門徒でもあったが、三河一向一揆の時に家長は父と訣別して一揆方に加わらず、義理の伯父に当たる家康に従軍し、
一揆衆を鎮圧するなどで忠節を貫き、家康から信頼されました。
家康から一字を与えられ、家長を名乗っています。
天正18年(1590年)8月9日、旧領8千石にさらに1万2千石 を与えられ、
計2万石で上総国佐貫城主となりました。
慶長5年(1600年)、鳥居元忠や松平家忠らと共に伏見城 を守備して石田三成ら西軍の挙兵を誘い、
三成ら西軍は 挙兵しなかがらも家長は元忠、家忠らと共に関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻防戦で戦死。享年55。
家督は長男 の政長が継ぎ、戦死した父の功績を賞されて1万石を加増されました。
1600年 天下分け目の関ケ原の合戦から
一年前に何か起こったのか掘り下げます。
豊臣秀吉の死後、大老・徳川家康は上杉景勝が、豊臣政権に対して反逆を企てたとして会津征伐を決定。
慶長5年6月18日に伏見を立ち東国へ向かいました。
一方大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布。
これに先立つ7月15日の時点で家康の家臣鳥居元忠らが在城する伏見城は籠城を開始しており、反家康の立場を明らかにした西軍はこれに対する攻撃を準備しました。
守る城側の兵力は城兵1800人に大坂城西の丸から移動してきた500人を加えた計2300人。
戦いの状況
本格的な戦闘は19日から開始され、
当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどするも、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ、
さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢するなど圧力を強めました。
攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなど十分に防御された城は容易に落ちませんでした。
孤立した城は8月1日昼ごろに落城。
鳥居元忠は鉄砲頭鈴木孫三郎に討ち取られ、
内藤家長父子・松平家忠上林竹庵ら以下800人が討ち死にしました。
伏見城攻防戦の様子を近隣の郷民たちは小栗栖の山から見物していたそうです。
当初島津義弘と小早川秀秋は東軍に味方するつもりであったため、城側に入城の意思を示したのに拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説があります。
前者は「島津家譜」、後者は「寛政重修諸家譜」等といずれも江戸時代成立の二次史料の記述を典拠としており、史実である確証はありません。
伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家、
副将は
✴︎小早川秀秋。
✴︎毛利秀元、
✴︎吉川広家、
✴︎小西行長、
✴︎長宗我部盛親、
✴︎長束正家、
✴︎鍋島勝茂、
✴︎大谷吉継、
攻城側に参加し、総勢4万人の大軍でした。
これに対して、守備軍は鳥居元忠を総大将とした僅か1,800人程でした。
徳川家康から要請を受けていた✴︎島津義弘が1,000人を引き連れて加勢を申し出、
入城を求めながら、その話が鳥居元忠に伝わっておらず、入城を拒否されています。
ただ、鳥居元忠軍1800人➕島津義弘軍1000人
合わせても、数的に惨敗していたと思います。
伏見城は豊臣秀吉が築き上げた巨郭であるとは言え、
兵力差から考えれば短時日で決着するはずの戦いでした。