【平貞盛】
それでも貞盛は常陸を拠点として、しぶとく将門と戦い続けるうちに、将門は新皇を名のり、朝廷の追討を受ける身となります。
やがて将門は5千の兵を率い、常陸北部に潜伏していた貞盛の捜索を行いますが、貞盛は何とか逃げ切りました。
すると将門は軍勢を解散して各地に帰還させ、手元には、わずか1千の兵しか残しませんでした。
貞盛はこれを好機と捉え、下野に出向くと、母方の叔父である秀郷に協力を要請します。
秀郷は状況を知ると、朝敵となった将門を討ち取ることを決意し、4千の兵を集めて将門に戦いを挑みました。
すぐにこれだけの兵が集まりましたので、将門に反発する勢力も、関東には多かったのでしょう。
ともあれ、秀郷にとっては名を上げるための、絶好の機会が訪れたことになります。
※将門を討ち取る
そして940年の2月1日から戦いが始まると、秀郷と貞盛は将門の軍勢を撃破し、その本拠である下総(千葉県北部)まで追撃をかけます。
兵力差があったとは言え、あっさりと将門の軍勢を討ち破ったことから、秀郷の指揮官としての能力が秀でていたことがわかります。
この勝利によって秀郷たちの元には、さらに軍勢が集まるようになりました。
一方で、将門は秀郷に敗れたことによって名声が下がり、多くの兵を集めることができなくなります。
反逆者の汚名を身にまとっていましたので、一度勢いがなくなると、転がり落ちるのも早かったのでしょう。
将門の手元には400の兵しか残りませんでしたが、それでも自身の武力を信じる将門は逃げることなく、10倍以上の戦力を持つ秀郷たちと、決戦を行うことにします。
こうして2月14日に、秀郷・貞盛連合軍と、将門の間で最後の戦いが始まります。
初めは風上に立った将門が有利に戦い、しきりに矢を秀郷たちの軍勢に浴びせかけ、苦境に追い込みました。
しかし急に風向きが変わり、今度は将門が風下に立たされることになりました。
秀郷たちはこの好機を見逃さず、逆に矢を浴びせかけ、将門の軍勢を崩していきます。
※白羽の矢が額に刺さる将門
【平将門】
貞盛・秀郷軍、将門軍へ矢を降らせます。
この時、大ムカデ退治の英雄、藤原秀郷が烏森神社(現在新橋駅の烏森口にあります)の白狐から頂いた白羽の矢を射たところ、みごと将門の額に命中。
将門軍は崩壊します。次々と貞盛・秀郷軍に討ち取られます。
こうして秀郷は、将門が作ろうとした関東の王国を、わずか2週間の戦いで瓦解させ、朝廷から功績を称賛されました。
秀郷は従四位下・下野守に任命され、
下野一国を取りしきる立場に就きます。
【上京し、朱雀天皇から称賛を受ける秀郷の図】
将門にかわって関東の実力者となった秀郷は、やがて武蔵守と、鎮守府将軍をも兼任し、
東国を広く監督する地位を手に入れています。
(鎮守府将軍は、東北の官軍司令官です)
秀郷は、当時の武家の代表的な人物とみなされるようになり、その子孫は日本各地に広がっていきました。
※秀郷の子孫とされる人々
秀郷の子孫だとされる家系は非常に多いのですが、その中から代表的な一族や人物を紹介していきます。
平安時代の後半から鎌倉時代の初期において、奥州藤原氏という一族が東北を支配して繁栄しましたが、彼らは秀郷の子孫です。
この藤原氏は、奥州から採掘される金を用いて経済的に繁栄し、中央から遠く離れていたこともあって、東北に独立王国を形成しました。
源平合戦の頃には源義経を匿い、屈強な武士たちを供に加え、源頼朝の元に送り出したことでも知られています。
関東では、下総の結城氏が秀郷の子孫で、戦国時代には家康の次男、秀康を養子にしています。
秀郷の本拠だった下野や常陸、上野(群馬県)、相模(神奈川県)など、関東には広範囲に秀郷の子孫がいて、大小の武家として活動しています。
また、畿内では近江(滋賀県)の蒲生氏が秀郷の子孫で、戦国時代には蒲生氏郷が輩出され、
会津91万石の大名となり、立身を遂げています。
氏郷の「郷」の字は、秀郷から肖ります。
氏郷は東北の抑えとして秀吉に遇されていましたので、秀郷の鎮守府将軍を継承したような立場にありました。
それ以外には、「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助もまた、秀郷の子孫です。
この大石氏は、元は関東の小山氏の一族でしたが、近江の大石庄に土着して、大石氏を名のるようになりました。
そして浅野氏に仕え、大坂の陣で活躍したことから家老として重用されるようになり、やがて子孫の内蔵助が、忠臣蔵の事件に遭遇することになります。
また、九州にも秀郷の子孫が多く、大友氏や龍造寺氏、立花氏など、北九州で活躍した武家が目立っています。
その他には、よく使われている「佐藤」「近藤」「伊藤」「内藤」「武藤」「斎藤」といった姓もまた、秀郷の子孫の姓であり、地名や官職名と「藤」の字が合わさることで、それらの姓が生まれました。
秀郷は日本中の武家と多くの家系に対し、
広く影響を及ぼしています。
※秀郷のムカデ退治の伝説
歴史上の秀郷の事跡と系譜は、おおむね以上のようなものですが、それ以外にも、秀郷には怪物退治の伝説があります。
秀郷がある日、近江八景で知られる勢多の唐橋までやってくると、橋の上に大蛇が横たわっていました。
両目が太陽のように光り、頭には二本の角が生え、口には鉄のような牙が生えていて、大変におそろしい姿をしています。
普通の人間であれば、その姿を見ただけで、逃げ出してしまうようなありさまでしたが、秀郷は怖れず、大蛇の上を荒々しく踏みつけて通行しました。
大蛇は驚いた様子を見せず、秀郷が去るまでじっとしています。
秀郷は後も振り返らずにどんどん歩んで行きますが、やがて秀郷の前に、小男が出て来て挨拶をしました。
「私はこの橋の下に2千年も住んでいますが、これまでにあなたのような勇気のあるお方はいませんでした。
そこで、あなたを見込んでお願いがあります。実は私には、長年争っている宿敵がいるのですが、最近ではすっかり力の差がついてしまい、
ひどい目に合わされています。ご迷惑とは思いますが、どうか弱い私を助けてはくれませんでしょうか?」と頼んできました。
秀郷は「よかろう。その願い、俺が引き受けてやろう」と承知し、小男に導かれて勢多の橋の方へと戻りました。
すると、小男は琵琶湖の水を二つに分け、秀郷をその中へと誘います。
そして湖の深くへと潜っていくと、やがて玉で飾った立派な門が見えてきて、その先には瑠璃を敷き詰めた庭がありました。
そこには花が咲きこぼれ、美しい朱色の高楼や、紫の屋根の御殿が建ち並んでいました。
御殿は金や銀で飾られ、華麗で壮大な作りで、秀郷はその姿に目を奪われます。
やがて小男はその中に入ると、間もなく引き返してきます。
するとその姿は、美しい装束を身につけ、冠をかぶった王者のものに変わっていました。
実はここは竜神の宮殿で、小男は竜神が化けた姿だったのです。
竜神は秀郷を中に案内し、そこで家来たちが酒宴を開いて秀郷をもてなしました。
そして夜が更けると、家来たちは「そろそろ敵が現れますぞ」と言い、恐れをなし始めます。
秀郷は五人張りの強弓と、太い矢を三本、かたわらに置き、「いつでも来るがよい」と言い放ち、怪物が出てくるのを待ち構えました。
やがて真夜中になると、激しく雨が降り雷鳴がとどろき、二、三千とも見える松明が向かって来ます。
ずん、ずん、と地響きを立てながら、その怪物がやって来ますが、それは巨大なムカデの姿をしていました。
松明に見えたものは、怪物の左右の脚で、脚の先に炎がともっていたのでした。
いよいよ怪物が近づいて来たので、秀郷は弓を引き、矢を放ちます。
それは狙い通りに怪物の眉間にあたったものの、跳ね返されてしまいました。
さしもの秀郷も驚きましたが、「一本を射損じてしまったか。
だがこの秀郷の強弓が通らぬはずがあるものか。次の矢で眉間を射通してくれよう」と言って、
二の矢をつがえ、また眉間に矢を放ちます。
しかし、またしても矢は通らず、はじかれてしまいます。
さすがの秀郷も途方にくれますが、目をつむり、何か手段はないかと考えました。
すると「人の唾は、毒虫の弱点だ」と思い出し、矢の先に唾をつけ、またも眉間に向かって放ちました。
すると今度は、矢が見事に怪物の眉間を貫きます。
怪物は恐ろしいうなり声を上げ、地響きを立てて地面に倒れ込みました。
すると二、三千も灯っていた松明も、一度に消えてしまいます。
竜神や家来たちは大変に喜び、酒宴を開いて秀郷を大変にもてなしました。
そして帰る時には名刀と鎧、絹と米俵、さらに銅の釣り鐘を土産にと秀郷に贈っています。
竜神は秀郷に厚く礼を述べると、
「あなたの御子孫からは、きっと将軍になるような立派な人物が、たくさんお生まれになるでしょう」と告げました。
【龍神のイメージ】
秀郷は都に戻る途中、※鐘を三井寺に寄付し、後の品々は家に持って帰りました。
【天台寺門宗の総本山で、近江八景のひとつ
すると不思議なことに、絹はいくら切り取ってもなくならず、俵の米は、いくら取り出してもなくなりません。
そのため、秀郷はいくらでも立派な着物を作ることができ、米をたくさん倉に蓄えることができたので、財産家になりました。
そして、その俵にちなんで「俵藤太」と呼ばれるようになります。
藤太とは、「藤原氏の長男」という意味です。