藤堂家と内藤家から見た大阪城
この城がね、
昼間はこんな感じ。
昨晩プロジェクトマッピングで
幻想的世界に変幻したんですよ。
4.5.日だけお休み頂きました。
16:00から表参道で打ち合わせあるので
飛行機で戻ります。
今回のミッションは石垣調査。
秀吉は嫌いだけど、
お城は宝🏯
石垣をどうしても観たくて、
やって参りました大阪城。
「大阪城」を「大坂城」と「つちへん」のサカで表記されていることが多い理由。
大阪城が造られ城として機能した時代にはそう表記されていたからです。
※大阪に都があった7世紀
(難波宮=大阪城の隣に宮殿)
地名を「烏瑳箇(ヲサカ)」と呼んだと云います。
ヲサカが大坂と書かれるようになり、
それが文献資料に頻繁に登場するようになるのは、15世紀末に浄土真宗の高僧蓮如が、石山本願寺や大阪城の基となる石山御坊を建ててからとされ、
以後幕末まで大阪は大坂と表記されてきました。
幕末に「坂は土に反る(返る)と書くので城として縁起が悪い」といった者がおり、
それで丘を意味する「こざとへん」の阪を使うようになりました。
近代以降は大阪が一般的ですね。
極道が五葉松を置かないのも、
鰹節が、勝つ武士なのも、
縁起担ぎですからね。
現在大阪市では大阪城一帯の施設を
「大阪城」と表記しており、
天守を管理運営する法人
「大阪城天守閣」も「大阪城」と表記しています。
大阪城といえば豊臣秀吉のイメージがあり、
地元にも「大阪城は太閤の城」と思っている人が多い大阪城は、
実は徳川秀忠が1620年、全国の大名に号令して建てさせた徳川の城なのです。
秀忠は豊臣の影響力を一掃し、西日本に徳川の力と権威を知らしめるため、
豊臣大阪城の上に、より大きな徳川大阪城を築くことにしました。
秀忠は普請奉行の藤堂高虎に堀も石垣も豊臣の2倍以上の豪華さにしろと命令しています。
既にある城跡に新しい城を築く時は、
古い城の土台を利用するのが普通ですが、
藤堂高虎は2倍を実現するために、豊臣大阪城の上に何メートルも土をかぶせて更地にするという、なんとも大胆なプランを採用しました。
大阪城では地面を深く掘らなければ豊臣時代の遺構を目にすることはできないからです。
石山本願寺のあった石山に盛り土をして豊臣大阪城が造られ、
さらにその上に土を被せて、巨大な徳川大阪城が築かれています。
このため豊臣大阪城と徳川大阪城は石垣や堀の配置が違っているのです。
ちなみにこちらが大阪城の石垣。
打込み接ぎで隙間がありません。
徳川時代の石垣の特徴ですね。
この石垣は慶長3(1598)年、
大坂城の防御力を強固にするために築かれた三の丸の石垣。自然の石を積み上げた野面積み。
これは1万7千もの民家を城外へ強制移転させて作らせました。
当時の石垣の高さは最大で3.3mで、徳川が埋め立てた時の高さは推定約5m。
大阪冬の陣の講和で、どのくらい石垣を埋めたのかがよくわかります。
広さ33畳敷きで推定重量120トン。大阪城内では2番目に大きい石とされている肥後石
肥後(熊本)の加藤清正が置いたからだといわれていますが、
これも名古屋城の「清正石」と同じで、
清正の豪快なイメージから生まれた伝説です。
実際に京橋口の工事を担当したのは備前(岡山)領主、池田忠雄でした。
京橋口の巨石に傷みが見られるのは、アメリカ軍の空襲で、石の上に並んでいた建物が全て焼け落ちたからです。
大阪城にはそうした対米戦争の傷痕が随所に見られます。