ではアナンヌキはどこから来たのか?
ゼカリア・シッチンによれば、この太陽系には10番目の「ニビル」と呼ばれる惑星が存在するとい彼は、シュメールの粘土板を詳細に解析し、
この結論にいたった。惑星ニビルは公転周期約3600年で、知的生命体「アヌンナキ」が高度な文明を構築しています。
アヌンナキは、地球に接近したときに地球に飛来し、人類を遺伝子操作で猿人から創生ました。
現在、多くの科学者は、宇宙全体で知的生命体が存在する確率は非常に高いことを認めています。
その知的生命体同士が遭遇する確率はほとんど0だと言います。
仮説によれば、地球人類とアヌンナキは遭遇したのでなく、アヌンナキが自分たちに似せて作り出した生命体が地球人類だということになります。
聖書の創世記にある
「神は自分たちに似せて人を創った」
という記述が実際に行われています。
シュメール人の末裔は?
その証のひとつが天皇家の菊花紋です。
皇室の表紋として著名な菊花紋は、延命長寿の効用を伴う延年草とも呼ばれる菊の花を原型に、
その花弁が放射状に並んで日の光にも例えることができることから、
日の出ずる国家の象徴である天皇家のシンボルとして創作されたと言われています。
平安時代では「いろは歌」が普及するのと時期を同じくして、
現代に伝わるいろは歌の内容。
- いろはにほへと ちりぬるを
- わかよたれそ つねならむ
- うゐのおくやま けふこえて
- あさきゆめみし ゑひもせす
- 色はにほへど 散りぬるを
- 我が世たれぞ 常ならむ
- 有為の奥山 今日越えて
- 浅き夢見じ 酔ひもせず
古くから「いろは四十七字」として知られ、
最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では「ん」を加えることがあります。
四十七文字の最後に「京」の字を加えるのは、弘安10年(1287年)成立の了尊の著
『悉曇輪略図抄』に「末後に京の字有り」とあって、当時既に行われていたようであります。
「京」の字が加えられた理由については、仮名文字の直音に対して「京」の字で拗音の発音を覚えさせるためだという説があります。
いろは順には「京」を伴うのが広く受け入れられ、いろはかるたの最後においても
「京の夢大坂の夢」となっています。
菊花紋についてですが、特に文様として流行し、宮中では年中行事として観菊の宴が始まりました。
そして鎌倉時代、
後鳥羽上皇のときに菊花紋が皇室の紋章として正式に取り入れられたのです。
その後、武家のシンボルとしても足利、織田、豊臣氏などが家紋として使用し、江戸時代においては複数の大名や神社仏閣の紋としても使われました。
挙句の果ては町家の商標などにも濫用されはじめたため、明治維新、王政復古の元年に禁令が出され、
許可なく物品へ御紋を描くことが禁止されました。
そして明治22年に菊花中心の円の直径と菊花全体の大きさの割合が3対38に定義され、
大正15年に発布された皇室儀制令により、菊の花は16葉、
その花弁は8重菊の複弁、
弁のはしの弧は32と定められたのです。
今日では菊花紋は皇室の家紋として天皇旗や天皇御料の乗り物 、宮殿の建築物、食器や礼服、および印紙やパスポートなど、幅広く利用されています。
古代文明において神聖文字を図案化したとも思われる紋章は、自然界に住む神々と人間との関係を象徴しているため、
菊花紋は当初、天を照らす太陽の神のシンボルとして考案され、
次第に菊の形状に整えられていったと推測できます。
シュメール王朝の都であった※バビロン遺跡
には、紀元前600年に建造された
※イシュタル門が残っており、
これには王家の紋章として多くの菊花紋が描かれていますが、それはまさに日本の菊花紋とまったく同じ形です。
そして驚くことに、イスラエルの首都エルサレムの中心にある神殿の城壁にも、菊花紋が見事に刻まれているのです。
さて、この菊花紋は平安時代よりもさらに昔、紀元前より中近東に流行しており、
シュメールにおいては王朝を象徴する家紋として使われていたものなのです。例えば紀元前2300年。
シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑には、菊の紋章に大変類似した文様が描かれています。
これがシュメール王朝の菊花紋の原型となったとも考えられます。