坂本龍馬を殺したのは誰だ?! | Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

Sheila∞River 最果てへの旅路を君の夢とともに・・・。

AIR PAVILION MUSIC AGENCY
代表取締役社長

Royal Escort Grand Prix
名誉会長

MR. & MS. RUNWAY MODEL UNIVERSE
インターナショナルディレクター

内藤 飛鳥

【フリーメイソンと龍馬と麒麟】
{306E9637-9CC9-4D41-B6DE-82B0B8BC5CF8:01}


私のお隣のお写真の方は
坂本龍馬の兄上の御子孫様です。

{DAE39EB3-8D8D-4BE4-8E57-53D4CA920284:01}



さて、麒麟ビールは飲みますか?
{A4AD7AC5-DDD0-4A8A-BF34-18A784EA99D5:01}


物語の最後に、

坂本龍馬と麒麟ビールの謎解きをしたいと思います。
{EBFE5AAC-00AF-4E61-ACC5-873BC3EF87BD:01}


京都霊山護国神社 があります。
(明治維新に尽くした1043名を弔い、
坂本龍馬の墓もある神社)
{364C370D-5F5C-409F-84F5-23B7B7F3EC9A:01}

{417E25EF-EB8B-452D-A016-2B59764A4E59:01}



坂本龍馬を暗殺した真犯人について、
私なりに考察したいと思います。

結論から言えば、イギリス(グラバー、ジャーディン・マセソン商会、
グラバー、ロスチャイルド、アーネスト・サトウ)、
薩摩藩(島津久光、大久保利通、西郷隆盛など)、
長州(伊藤博文、井上馨、など)、
土佐藩(後藤象二郎、岩崎弥太郎、など)のラインで坂本龍馬の暗殺が計画され、
雇われた刺客により坂本龍馬と中岡慎太郎は斬られたというのが、一般的な説です。

坂本龍馬は、三条河原町の土佐藩邸で、暗殺されています。

また、別の説に首謀者は、岩倉具視と大久保利通で、
実行犯は、板垣退助、谷干城、田中光顕
暗殺現場とされていますが、

この説に関しては私は疑問符です。

醤油屋、近江屋の道を挟んで向かい側の土佐藩邸で、暗殺されました。

(実際には入り口ベースだと 2 つくらい道うを挟みます)

その後、坂本龍馬と中岡慎太郎の亡骸が近江屋に運ばれ、近江屋にて最期を迎えたこととして言い伝えられています。

確かに暗殺後の話を振り返ると、田中光顕と谷干城は、不思議な行動をしています。

谷干城は、祇園の茶屋にいた当時の京都の土佐藩邸責任者、福岡孝悌の帰りを待ってから、近江屋へと向かいます。
大久保利通に暗殺報告をした為だと言われています。
{001B6FB8-EB25-431F-B36D-0CB93F150D86:01}


色んな首謀者説があります。

では一体、

【誰が坂本龍馬を殺したのか?】

私は京都見廻組が一番暗殺者に近いのではないかと思っています。

これは私の憶測ですが、
佐々木只三郎が首謀者だと考えています。
{D4398650-944F-4509-B059-58164E86CAC2:01}

{EF3A0C2C-8B1C-43CC-B467-389653B55CBD:01}



しかし、坂本龍馬を暗殺した証拠が上がらず、未だに坂本龍馬の暗殺犯は迷宮入であります。

京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織。

元治元年(1864年)、江戸幕府は京都守護職で会津藩主の松平容保の配下として、蒔田廣孝と松平康正を京都見廻役に任命しました。

蒔田・松平がそれぞれに配下の組を持ち、それぞれの官職名から相模守組(蒔田)と出雲守組(松平)と称され、各200名ほどの隊士を指揮しました。

隊長である与頭は旗本、隊員は御家人でした。

詰所は二条城の側に置かれたとされています。

与頭、与頭勤方、肝煎、見廻組、見廻組並、見廻組御雇、見廻組並御雇などの職階がありました。

見廻組は新選組と同じく、反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事した。

見廻組は主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄としました。

そのためか、新選組と共同戦線をとることはあまり無かったようです。

身分の違いにより反目することもあったといいます。

大政奉還後、相模組与頭の佐々木只三郎、組士・渡辺吉太郎、高橋安二郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎、渡辺篤らが坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に関与したとされています。

慶応3年12月14日(1868年1月8日)、
新遊撃隊に改称され、12月25日(1月19日)、見廻組に名称を戻し戊辰戦争に参加、慶応4年3月18日(1868年4月10日)、狙撃隊に改称されました。

戊辰戦争では降伏しています。

理由はシンプルで、誰が得をしたかという事であります。

坂本龍馬の龍馬の暗殺の犯人として、

1)新撰組 
2)京都見廻組 
3)薩摩藩 
4)土佐藩 
5)中岡慎太郎 

などの説が一般的であり、京都見廻組説が主流です。

1) の新撰組とは、京都守護職・松平容保公預かりで、京の町の治安維持に当たっていた警備隊で、倒幕の志士達を斬り殺しています。 

新撰組が疑われたのは、現場に新撰組の下駄があったとか、元新撰組の伊東甲子太郎が暗殺現場に残された鞘(さや)を見て、新撰組の原田左之助のものと証言したことなどから、真っ先に疑いが掛かったものの、近藤勇をはじめ、隊士の誰もが関与を否定しており、いろんな証言が食い違いすぎいます。

2) の京都見廻組とは、京都市中の取り締まりを、主任務とする幕府の警備隊で、新撰組と同じようなものですが、元京都見廻組の今井信郎や渡辺篤らが後年、龍馬襲撃を証言しているものの、食い違いも多く真実と結論付けるには至らないものの、倒幕側の龍馬を暗殺する事は、何ら不思議ではないので、京都見廻組説が主流となっています。

3) 薩摩藩黒幕説は、倒幕を計画し徳川と一戦構えようとしているときに、坂本龍馬が公武合体の先方となってしまい、徳川慶喜に大政奉還させてしまったので、今後の武器取引にも坂本龍馬は邪魔となる存在になってしまったというものです。 

私は、この説は至極自然な考えであると思っています。

龍馬が土佐藩の山内容堂に船中八策を説き、公武合体派の山内容堂が、
徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出したのが1867年10月29日、
内戦を避けるために、慶喜が朝廷に大政奉還の上奏文を提出したのが1867年11月9日。 

その直後の1867年11月15日に、坂本龍馬は暗殺され、薩長は徳川を挑発し1868年1月27日に鳥羽伏見の戦いが始まっているのです。

4) 土佐藩説では、中岡慎太郎が死ぬ直前に残した証言で、刺客が土佐弁で 

「こなくそ(=この野郎)」 と言ったとしていますが、重要なのは雇ったのが誰かであって、刺客が何弁を喋ろうが重要ではありません。 
わざとに、土佐藩の仕業に見せかけるために、土佐弁を使った事だって考えれるのです。

5) 中岡慎太郎説ですが、
同じ土佐藩の親友である海援隊の坂本龍馬、陸援隊の中岡慎太郎が斬りあったとはとても思えませんし、いつも行動を共にしていたのですから、いつでもチャンスはあったわけで、何故に大政奉還の直後に龍馬を殺さねばならなかったのかという理由がありません。

私にとって、新撰組説、京都見廻組説が、しっくりこないのは、彼らにしてみれば倒幕側の坂本龍馬は以前から狙えたわけで、わざわざ大政奉還の直後に行ったのは何故かという疑問を持ちます。  

何故なら、龍馬が公武合体を唱えている時期は、むしろ徳川から見れば、倒幕派の大物で唯一コンタクトを取る事が出来るのが坂本龍馬であり、
彼は打倒徳川ではなく、朝廷の下で徳川を他の大名と同じ立場に置き、発言権をも認めるというもので、かつ民の事を考えると、同じ日本人同士で殺し合いをしなくて良いわけですから、決して悪い話ではありません。 
すなわち、この時期に龍馬を狙うのは得策ではありません。

また、このような高い次元から考えず、新撰組や京都見廻組が単純に、龍馬を反徳川と思っていたなら、剣の達人でもあった彼を斬り殺せた事は名誉なことであり、
堂々と 「首を討ち取ったぞ!」 とその場で宣言しても良いくらいであると思います。  
今まで仕事として反徳川勢力の人間を斬り殺してきたわけですから、別に龍馬を斬ったから殺人罪に問われるものではありません。

私の説は、基本的に薩摩藩黒幕説なのですが、これまたしっくりこないのは、

世間一般の薩摩藩黒幕説では、何で薩摩藩だけに限らなければならないかという事です。 
                        ~龍馬が邪魔な人たち~

公武合体により、内戦を避けるべく龍馬が活動して困るのは、薩摩藩だけではありません。 
誰より困るのは、既に大量の艦船、大砲、銃、弾薬を見込みで発注をかけているグラバーであり、不渡り手形に怯えるジャーディン・マセソン商会の重役、
ロスチャイルド家であります。
{CBC53AB2-56BD-4E4A-8CF7-CD0D6B994637:01}


また、龍馬の海援隊(前身は亀山社中)がグラバー商会のダミー会社として、
薩長と武器取引していたわけですから、龍馬が戦争反対となれば、
薩長の立場としては徳川と戦うための武器調達が出来なくなるという大問題を抱え込むことになってしまいます。

そうなれば、もう龍馬に消えてもらう以外に手はありません。 
ここで甘い判断をしていると、
薩長両藩の存続の危機を迎える事になってしまいます。

~三菱財閥~

では、龍馬を暗殺した場合、武器取引の商社である海援隊をどうするかという問題になりますが、
そこで後藤象二郎と岩崎弥太郎も一枚かんでいたと私は見ます。

坂本龍馬と亀山社中(後の海援隊)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1123.html

龍馬の「船中八策」を山内容堂に提案し、大きな功績を挙げた後藤象二郎ですが、どうしてもグラバーや薩長両藩と関係のあった龍馬のほうが派手に目立ち、
龍馬のことを快く思っていなかった後藤象二郎にとっては、龍馬を消すという話に一枚絡んできても不思議ではありません。

実際、龍馬暗殺の後、後藤象二郎は 
「海援隊」 を自分のものとし、
「土佐商会」 に改名し、岩崎弥太郎が主任となり、後に岩崎弥太郎のものとなってゆきます。 
さらに倒産したグラバーの高島炭鉱も二束三文で払い下げを受け、自分のものとし 「蓬莱社」 と改名し、
これまた後に、岩崎に譲っています。 

この2人の悪友の評判は極めて悪く、
明治維新の際に、まさしく公私混同、インサイダー取引を繰り返し、私腹を肥やしてゆきました。

岩崎弥太郎は、言うまでもありませんが三菱の創始者です。 

彼は高知県安芸市の地下(ちげ)浪人の長男として生まれましたが、とにかく貧乏で、幼少の頃から奇行や盗み癖が目立ち、泥棒をしては何度も刑務所に入っています。 

確か、司馬遼太郎の 「龍馬がゆく」 にも、この事は書いてあったと記憶しています。

岩崎は、25歳の時吉田東洋の門下生となり、土佐藩の命で長崎に派遣されましたが、藩費を浪費・使い込み、翌年解職されています。 

もっとも、何度も刑務所にブチ込まれている彼としては、何ら経歴に傷がつくほどの事ではなかったと思われます。

岩崎弥太郎がチャンスをつかむのは、同郷の坂本龍馬が暗殺されてからで、
後藤象二郎が「海援隊」 を自分のものとし、「土佐商会」 と改名し、その主任として岩崎を雇ってからです。 

前述しましたが、坂本龍馬がつくった海援隊や、グラバーの高島炭鉱は後藤が先ず手に入れ、盗み癖よろしく、官営事業払い下げという形で、岩崎弥太郎が最終的にそれを手にしています。

取引は、後に西南戦争、日清戦争、日露戦争で、三菱のドル箱事業となってゆく事になり、岩崎弥太郎は坂本龍馬をしゃぶり尽くしているのです。

また、維新政府が全国統一貨幣制度に乗り出した時に、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ていますが、
この情報を流したのも新政府の高官となっていた後藤象二郎であります。 

これは明らかなインサイダー取引で、この2人は国を食い物にして私腹を肥やしていました。

すなわち、三菱は、三井や住友のような老舗の財閥とは異なり、
明治維新のどさくさに紛れて、政治家や軍事産業と密接につながり、デタラメをやりながら出来た財閥と言えます。 

確かに創始者は岩崎弥太郎に違いありませんが、坂本龍馬がいなかったら、また暗殺されなかったら、今日の三菱財閥はなかったでしょう。

話を龍馬暗殺に戻すと、このように、グラバー、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイルド、薩長両藩のみならず、土佐藩の後藤象二郎や岩崎や太郎も、坂本龍馬暗殺の恩恵を蒙っており、暗殺に関わっていても不思議ではありません。  

また、龍馬暗殺をさかいに、
グラバーは岩崎弥太郎と密接なビジネスパートナーとなってゆき、グラバー商会倒産後は、三菱の顧問となっています。

                          ~麒麟麦酒~

日本で最初のビール製造工場は、
明治はじめにアメリカ人ウィリアム・コープランドとウィーガンドが横浜山手の天沼に設立した 
「スプリング・ヴァレー・カンパニー」 ですが、三菱の顧問をしていたグラバーが、工場買収を買収して資本金5万ドルで 
「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」 を設立しました。

これが後に、三菱の麒麟麦酒株式会社へと発展してゆきますが、この会社のシンボルマークが何故麒麟なのか?  

グラバーは元々は武器商人でもあり、策略家でとにかくお金を稼ぐことに長けていました。

イギリスが当時の清(今の中国)にインドを通じてアヘンを輸出してボロ儲けをした上、

清がアヘンの輸入を禁止すると戦争(アヘン戦争)を起こし勝利後には香港を占領、

上海などの港を強引的に開港させたという真っ黒な歴史も有りますが、

まさにこの時アヘンの輸出に関わって大儲けしていたのがトーマス・ブレーク・グラバーです。

 因みにフリーメイソンのメンバーです。

【しかし日本では偉人扱い】

トーマス・ブレーク・グラバー(以降敬称:グラバー)は日本にきてすぐに

「ずっと鎖国をしていた日本には貿易で儲けるチャンスが眠っている」

ということに気付き開国への策略を練り始めます。

 
その後、明治維新によって日本の鎖国は解かれますが、クラバーはアヘンではなく

武器、ビール、造船、炭鉱、造幣、鉄鋼、水産技術を日本へ輸出しようと決意します。

その結果、西洋の先進技術が日本へ一気に流れ込み、クラバー氏にも富が転がり込みました。

 

【明治維新を起こした立役者とも言われる】

幕末の英雄として有名な坂本龍馬、元浪人の彼がどのようにして同志を集め、

武器や軍艦を調達したのか、そしてその資金はどこから出たのかは歴史の謎と言われています。

 
一節によるとグラバーが貿易を有利にするため、開国主義の日本人を募って閉鎖的な徳川幕府を

崩壊に追い込む策略を練り、志を共にした坂本龍馬へ惜しみなく技術や資金の提供をしていたと言われています。

 
また、後の総理大臣、伊藤博文がイギリスへ渡航(密航)した時もグラバーが支援しています。

イギリスへ渡航した伊藤博文は、日本との国力の差を目の当たりにして愕然とし開国へと思想を変換させていきます。

 

【ビールに縁のあるグラバーさん】

グラバーは明治維新後に造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との繋がりを深めていましたが、

戦争が終わったことで本業の武器販売が低迷したことから

資金が枯渇し会社(グラバー商会)が倒産。その後、高島炭鉱の実質的経営者として日本に留まりました。

 
グラバーは高い経営能力や投資センスを買われ三菱財閥の相談役としても活躍します。

経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を勧め、後の麒麟麦酒(キリンビール)の基礎を築きました。

 
これらの功績からトーマス・ブレーク・グラバーは、産業大国日本 の礎を築いた偉人として現在も語り継がれています。

「明治維新」この維新の立役者となった

「坂本龍馬」はあまりにも有名な人物です。

では彼の後ろにフリーメイソンの影があった事を

ご存知の方はどれだけいるでしょうか?

 

龍馬や倒幕派を支援したとされる武器商人

トーマス・ブレーク・グラバー

 
そして当時のイギリス外交官

アーネスト・サトウ

 
彼らが龍馬達倒幕派を支援した

フリーメイソンだと言われているのです。

とはいえこの2人が明確にフリーメイソン

であったという証拠は存在しません。

 

しかしトーマスの自宅、「グラバー邸」

そこの門柱にはなんと……

フリーメイソンのマークが刻まれているのです。

また、アーネストは英字新聞に

「日本の将来のヴィジョン」

を投稿していてこれはすぐさま翻訳され

西郷 隆盛ら倒幕派の人物に読まれています。

1説にはこれが「明治維新のモデル」

になったとも言われているのです。

ちなみにサトウは西郷の他

伊藤 博文や勝 海舟とも人脈があったとか……

以上の情報から考えて彼らがフリーメイソンと

全くの無関係とは言えないことが分かります。

フリーメイソンのメンバーは

「ロッジ」と呼ばれる「集会所」に集まり

互いの顔を確認し合いながら親交を深めます。

ロッジではメンバー同士交流して

情報を交換、提案し相談しあうといいます。

そして当時のグラバー邸には多くの日本人が

出入りしその中には坂本龍馬の姿もあった

と言われているのです……。

フリーメイソンはこれまでに

フランス革命、アメリカ独立戦争、ロシア革命

等といった多くの革命に関わって来たといいます。

そして「明治維新」さえも彼らの思惑に沿って

龍馬達を操り起きたとされる革命だとも言われています。

現在幕末から明治初期の日本には

フリーメイソンのロッジはなかった

とされるのが一般的な認識です。

しかしグラバー邸の門柱に刻まれた

フリーメイソンのマークを見る限り

少なくともグラバー邸はロッジかそれに類する

集会所であっただろうと思われています。

 

そしてならば他にも

似たような場所が存在した

と考えるのが自然。

複数のロッジがあれば連絡役が必要になります。

 

土佐、長崎、京都、江戸と自在に動き回った坂本 龍馬は彼らにとって重要な連絡係だった

とする説も存在しています。

龍馬は土佐藩の下級武士の出身。

封建社会であった当時の日本では

身分という越えられない壁に縛られていました。

よってフリーメイソンの基本理念である

「自由・平等・博愛」に共感を得たことで

グラバーやサトウといったフリーメイソンに

協力を仰いだと考えられています。

維新の黒幕がフリーメイソンだとして

ならその目的はなんだったのか?

日本を支配するためだとか

フリーメイソンの思想を広げるためだとか

いろんな説がありますがどれも

現代日本では実感できないものばかり。

フリーメイソンの偉い方にお逢いしますが、日本の政治を乗っ取る企みの方はいません。

~麒麟麦酒のマーク~

私は、グラバーが親友であった坂本龍馬の事を痛ましく想い、
【龍の頭 と 馬の体】を持つ麒麟を、

【龍馬】に見立ててシンボルマークとし、龍馬にすまなかったという気持ちをあらわし、
龍馬との思い出を偲んでいたのではないかと思うのであります。



{18EDBC8B-8259-49EE-AA76-EB2F69DF36A5:01}
補足:麒麟

三才図会に描かれた麒麟(明時代・1609年)
麒麟(きりん、拼音: qílín チーリン)は中国神話に現れる伝説上の霊獣です。

獣類の長とされ、これは鳥類の長たる鳳凰と比せられ、しばしば対に扱われます。

ただし『淮南子』によれば、麒麟は諸獣を生んだのに対し、鳳凰は鸞鳥を生み鸞鳥が諸鳥を生んだとされており、
麒麟と対応するのは正確には鳳凰より生まれた鸞鳥となっています。

日本と韓国ではこの想像上の動物に似た、
クジラ偶蹄目の1種の名前になっています。

外見

形は鹿に似て大きく背丈は5mあり、
顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、
麒角、中の一角生肉。

背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗がある。基本的には一本角だが、二本角、三本角、もしくは角の無い姿で描かれる例もあります。

性質

普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌います。

神聖な幻の動物と考えられており、
1000年を生き、その鳴声は音階に一致し、
歩いた跡は正確な円になり、
曲がる時は直角に曲がると言います。
また、動物を捕らえるための罠にかけることはできません。

麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされているからです。

また、『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「瑞獣」とされ、
鳳凰、霊亀、応龍と共に「四霊」と総称されています。

幼少から秀でた才を示す子どものことを、
「麒麟児」「天上の石麒麟」などと称します。

孔子によって纏められたとされる古代中国の歴史書『春秋』では、誤って麒麟が捕えられ、
恐れおののいた人々によって捨てられてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られています。