【坂本龍馬と長宗我部元親の関係解析】
前回のお勉強会で
坂本龍馬の初代坂本太郎五郎さんは明智光秀の血縁の方
初代当主 太郎五郎は 明智光俊(明智光秀のいとこ)の血縁関係者であり
その光俊の子供が太郎五郎であることを
御本人から伺いまして、
憧れの長宗我部氏へ直撃!!
直接お話が伺えて感激しております。
神様
緋宮様
黒田様。
山崎の合戦の後
光俊の子である太郎五郎を連れて四国の雄長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
のもとに逃げました。
太郎五郎の墓に
山城の国の生まれ 畿内の乱を逃れて(避 畿内乱)土佐の国に移り住んだ(来住 土佐国)
とハッキリと書かれています。
長宗我部元親の妻は明智光秀の血筋(つまり明智家と長宗我部は親戚関係)
明智家と血族関係であった春日の局も長宗我部 元親を頼りに四国に隠れ住んでいたのです。
~坂本家と明智家は血縁 ~
明智光秀の妹が長宗我部 元親に嫁いでいます。
証拠は 家紋の桔梗で一致しています。
坂本龍馬記念館には升二つの中に桔梗の紋がが書かれています。
(光秀の居城であった坂本城は)
大津市にある明智家の菩提寺である西教寺の住職が明智一族の
家系図を示し坂本龍馬は近江の坂本の出身だと言います。
(坂本龍馬の坂本は明智光秀の居城があった坂本からとった)
また太郎五郎をつれて四国に逃げた曽我又左右衛門 曽我は長宗我部の血縁です。
しかも決定的な証拠として太郎五郎の母親は光秀の長女(光秀の孫)と書かれています。
(一介の浪士だった坂本龍馬がなぜ薩長同盟を成し遂げられたか)
光秀は島津家と毛利家とは親交が深かったここから(薩長同盟を結ぶことが可能になった)
近衛家(天皇の側近)と親しかった光秀は天皇から信長打倒の要望を受け入れ、
家康と同盟を結び信長を🔥本能寺の変🔥で滅ぼしました。
天皇はその恩に報い直系の子孫だった龍馬の後ろ盾になりました。
だからこそ一介の浪士だった男である坂本龍馬が薩長同盟を成し遂げられたのです。
1867年11月15日(慶応3年)龍馬暗殺当日京都に織田信長の子孫がいたとされています。
龍馬の祖先の土佐の初代が太郎五郎という人で、太郎五郎の父親が有名な明智秀満です。
秀満は、光秀の従弟で娘婿でもあり、妻は光秀の長女(ただし光秀の実娘ではなく叔父の三宅長閑(明智光兼)の娘)です。
秀満は、山崎の合戦の後に討ち死にしたことになっているが確証はなく、
☆光秀=天海説 ?
☆秀満=天海説 ○
の方がむしろ年齢的に無理がない有力人物です。
太郎五郎は庶子のひとりで、
長曾我部元親の正室は斎藤利三の妹で、利三の母は光秀の父の妹で、秀満の叔母です。
太郎五郎は土佐に逃れてきたのではないかという説があるのです。
❇︎太郎五郎が龍馬の先祖なので
明智秀満の子孫。
ちなみに、秀満の父光安は、
遠山景行を名乗っていて、江戸時代旗本として存続、この系統から名奉行遠山の金さんこと、遠山金四郎景元がうまれています。